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◆特集―第十九回内観療法ワークショップ◆

初めて「内観」の空気に触れて                

山内篤男 (沖縄県)


第十九回を数える内観療法ワークショップ奈良大会に初めて参加させて頂いた。小生が参加するに至った理由は内観に興味があったからではなく、今回、大会長の大任を果たした真栄城輝明君が中学校の同期であり、今年の年賀状に十月下旬に奈良でワークショップを開催するので参加しないかとの誘いがあったからである。  
しかし、内観については良く知らないし、参加する気はそれほど強くはなかった。そして、今年の六月に彼が講演のために帰省するというので、同期生が開催している模合い(頼母子講)をその日に合わせて彼の歓迎会をしたときの席でも、彼からワークショップへの誘いがあった。しかしその時も、私には参加の意思はなかった。それからしばらくして、内観療法ワークショップ開催に向けたパンフレットが郵送されて来た。すると、女性陣の中から「同期生が活躍している姿を直に見たいし、みんなでカリー(景気)を付けに行こうよ」との声が挙がった。沖縄では、酒宴で、乾杯の音頭を発するとき“カリー”と言い合って、お互いを祝福する習わしがある。「今回のワークショップでは、同期生が大会長を務めるというじゃないか、それならみんなで奈良まで行ってカリーを付けてやろうじゃないか」と言うことになった。懇親会で披露した幕開けの踊り(かぎやで風)に始まって、サンシン付き沖縄民謡の合唱、さらには最後のカチャーシーの中で、参加できなかった仲間のぶんも含めて、彼へのエールを思いきり表現させてもらった。
さて、ワークショップに参加しての感想を言わせてもらうと、内観に携わっている皆さんは優しい心と笑顔の持ち主だと強く感じたことだ。わずか二日間ではあるが、その中で過ごしただけなのに、私自身「心優しい人間」に少し近づいたように思っている。周囲がそういうから間違いないだろう。それにしても、今振り返るだけでも赤面してしまうのだが、「ワークショップに参加したふりして、大会長の挨拶だけ聞いたあとは奈良市内の観光と正倉院院展が見られたら」というとんでもないことを考えていた。
ところが、私以外の同期生達は(総勢十二名)輝明さんが活躍する姿を見たいという気持ちと内観を少しでも理解したいとの思いが強かった。ワークショップ開催の前日に奈良入りしたわれわれ同期生は、再会を祝して駅前の「贔屓屋」という居酒屋で閉店まで話し込んだ。勿論大いに盛り上がったことは言うまでもない。ワークショップが明日、明後日に控えていることを忘れたわけではないが、その後居酒屋から引き揚げた後もホテルの一室に集合し、皆ほとんど眠らず朝まで話し込んでいた。しかし、みんなさすがに内観を少しでも理解したいとの意気込みがあり、誰一人遅れることなく受付を済まし、一日目の青木先生の特別講演、宮川先生の体験講話の後は入門コース、応用コース、専門コースへと分かれてそれぞれ参画した。小生は分科会に参加せず抜け出して観光と思ったが、たった二時間の特別講演そして体験講話を聞いているうちに興味が湧き、観光を断念し他の五名と一緒に応用コースに参加した。パネリストの皆さんの話を聞きながら、内観の奥深さを知った。内観というものが教育にも応用できることを知ったからである。前日ほとんど睡眠をとっていなかったが意外にも眠気がなく、充実した気分で一日目を終えることができた。女性陣もサイボーグではないかと思うほど元気そのものであったし、彼女等の口から「参加して非常に良かった。輝明さんに感謝しなければ」との感想が出た。そして、一日目の終了後、我々同期生全員は、懇親会に参加させていただいた。そこは、沖縄にいるのではと錯覚するほどであった。とりわけ、最後に全員で踊った「カチャーシー」は、強く印象に残った。その余韻を引きずっていたせいか、ホテルに帰って、解散かと思いきや、ほぼ全員が一室に集い、その日もほとんど眠らず語り明かしたのであった。そのような状態で、二日目に臨んだのである。おそらく何人かは居眠りするだろうと思っていたが、「混迷する現代をどう生きるか」というシンポジウがそれぞれ専門的立場の含蓄のある話であったことから、会場を見回したところ居眠りをする者もなく真剣に聞いていたのには改めて驚いた。
昼食は、みんなで寿司屋に向かった。腹も十分満たされて、睡魔に襲われるかと思いきや、薬師寺の安田管主の講演でも、全員が目を輝かせて聞き入っていたのには感心してしまった。
そして、プログラム最後の内観体験発表がまた大変良かった。大和内観研修所で内観を体験した二名の方が堂々と実名で体験談を話すのを聞いて、心底驚いた。
内観ワーショップには、政治家や国の役人あるいはモンスター・ペアレントと言われている父兄等、自分が悪いのではない、他人や世間が悪いと思っている方々に参加してもらいたかった。
小生も我が強い方だと思っているが、そういう人でも変わることができるんだと思った。参加した同期生達の表情も心持ち穏やかになっていたが、これも内観の空気に触れた効果だと言ってよいだろう。小生自身が、「他人にしてあげている」「相手のためにやってあげたのに何故わかってくれない」等々の思いが強かっただけに、今回のワークショップに参加したことにより、「他人にしてもらっていることに気付かせてもらい、感謝の気持ち」が持てるようになったのは大きな収穫であった。まさに私の心体は「無い観」から「内観」へ現在増殖中のようだ。
最後になってしまったが、真栄城輝明君と大会運営のスタッフ、並びに大会を盛り上げてくださった講師の先生方に感謝したい。
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私と内観

内観と食事

    
          真栄城直子


内観研修所には、老若男女いろいろな方が訪れます。厳しい修行が待っていると思っているようで、ほとんどの方が不安な面持ちで門をくぐって来ます。ところが、初日の夕食のカレーやおでんなどに、「いやぁー、普通の家庭料理なのですね。一汁一菜というか、精進料理のようなものかと思いました」となぜかホッとした様子なのです。 
初日の夕食で不安も和らいで内観がスタートします。食事はお腹を満たすだけでなく、心にやすらぎを与えてくれるものなのですね。
 最近は朝食をトーストとコーヒーだけ、又はコンビニのおにぎりだけで済ませるという方も少なくありません。そのせいか、ごはんとお味噌汁、それに簡単なおかず一品とお漬物というごくふつうの朝食なのに“最高でした”という声を残して帰られる方がいます。また、主婦の方は上げ膳据え膳に悦び、仕事に就いておられる女性は、内観中食事を楽しみに待っている自分を、“今日の夕ごはん何だろう”と、急いで家路についた幼い頃の自分に重ねたようで、「現在の私は、忙しさにかまけてついお惣菜に頼りがちな日々を送っていましたが、食事は空腹を満たすだけではないのですね。これからは出来るだけ子どもたちに手料理を作ってあげます」と笑顔で話されました。
それと菜食を希望される方もいますが、お肉は勿論、魚、乳製品、卵など動物性ものが一切だめで、おダシも昆布か椎茸のみという方がいました。試食してみると、素材の味だけがするなんとも素朴な味でした。飽食の時代と言われていますが、今ではお寿司も鰻ももう特別な日の食べものではありません。
『食』を通して内観者の方々と接していますと、今の時代“ごちそう”ってなんだろうと考えさせられます。内観が深まり、周りの方への感謝の気持ちが湧き出たとき、食事が美味しく感じられるようです。
 お母さんが作った食事を家族で囲み、感謝の心で頂く、それが一番のごちそうなのかも知れませんね。(まえしろなおこ・大和内観研修所)

【体験談】
 人生に不幸な出来事はつきものである。その不幸な出来事の中でも最愛の人との別離ほど辛いものはないだろう。ある日、突然に、働き盛りの夫を「過労」のため亡くしてしまった女性がいる。大学生から中学生までの3人の子どもたちの母親である。
夫に先立たれた妻は途方に暮れてしまい、涙の日々を過ごしていたが、しかし、いつまでもこうして立ち止まっているわけにはいかない。遺品を整理していると、生前の夫が講演会に参加したときにもらってきた内観のパンフレットが出てきた。
 女性は、亡き夫とのことを整理するため、つまり「喪の営み」をするために中学生の娘を伴って内観にやってきた。その後、中学生の妹に促されて大学生の長男も内観にやってきた。子どもたちは内観して「お父さんに会えてよかった」と喜びを語った。妻は「内観後、不思議なことばかりが起こるんです」と言って、最近、遭遇した出来事をメールで送ってきてくれた。読ませてもらって涙が出た。感動の余韻がなかなか収まらないほどなので、HPにて紹介したい旨をお願いしたところ、快諾してくれた。ご本人の了解が得られたので、ここに掲載させてもらった。

 
「お月様と主人とそれからわたし」               
              
                 阿保 周子
  
 
星とタンポポ
青いお空のそこ深く  海の小石のそのように
夜がくるまで沈んでる 昼のお星は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ

散ってすがれたタンポポの 川原のすきにだぁまって
春のくるまで隠れてる 強いその根は目に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ



金子みすゞの「星とタンポポ」という私の好きな詩です。
「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」というフレーズが浮かび、まさにこの通りという出来事に出会いました。
平成18年11月19日(日)の未明。この日は、内観自己発見まつり「自分と出会う津軽の集い ~今、命輝く人とのつながり~」にスタッフとして参加し、弘前市の西に位置する秀麗岩木山の麓にあるホテルに宿泊していた日です。
 同室のお二人(母娘)がお風呂にいかれました。暗かったので何時か分かりませんが、私も目が覚めてしまい、起き出して、窓の障子を開けました。東に面した窓の向こうに、細いけれど、それはそれはきれいなお月様が見えました。
 そのお月様を見た瞬間、『あっ、主人だ!』と、強く思いました。
平成17年11月24日、元気だった主人が突然亡くなりました。仕事から帰ってきて、いつも通りに床につき、そして私が気がついた時には意識がなく、亡くなってしまったのです。
 主人の「死」をどう受けとめればいいのか、さまざまな思いがとめどなく湧いてきます。どうしてあなたで、どうして私なの。何をしたからこのようなことになって、何をしなかったからこのようなことになったの。まだまだ一緒の時間、空間を共有したかったのに、あなたはどこに、どうしているの。……毎日、毎日。繰り返し、繰り返し。答えのみつからぬまま、むなしい思いをだいたまま。
 主人に最初にあえたのは、集中内観の時でした。娘の不登校がきっかけで「内観」と出会い、平成17年のクリスマスから年末にかけて、大和内観研修所の真栄城先生のもとで、娘と二人、集中内観を体験しました。その時、夢の中で主人にあったのです。娘のために受けたつもりの集中内観でしたが、実は私自身のためでした。生い立ちを書いて自分の今までを振り返り、母、父、主人に対して、調べていく作業と時間が私にとって必要なことだったのです。その後も時々、夢で主人とあうことはありましたが、もっともっと主人を感じたいと思っていました。
 自己発見まつり「自分と出会う津軽の集い」開催に向けて、竹中先生や他のスタッフの方々といろいろ準備を進めていた時は、主人の一周忌も近くその準備も同時に進めていた時でもありました。そして、「自分と出会う津軽の集い」の二日目が11月19日だったのです。
 私が見たお月様、それは東の山の端に細く輝いていました。今まで見たことの無いお月様でした。でも、「主人だ!」との思いをとても強くし、うれしくてずっと見ていました。そのうちにお風呂からお母様がかえってきました。窓にお月様を見て、びっくりしていました。そして二人でしばらく見ていました。だんだん周りが明るくなってきても見えていました。娘さんが帰ってきました。見たこともないお月様が出ていて、今まで見ていたこと、今もまだ見えていることを話し、月のある方を見てもらいました。「見えない」と言うのです。私たちにははっきりと見えているのに。明るくなった空を見た人には、その細いお月様は見えないのだと分かりました。
 しばらくして、神々しい朝日が昇ってきました。そして、だんだん私の目にもお月様は見えなくなりました。
 「見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。」まさにこの通りだと思いました。主人は、いつもいつも私を見てくれているのだと実感しました。
 あとで月について調べてみたら、11月19日のお月様は、「月齢28日」、月の形は「糸のように細い」、月の見える時刻の目安は「日の出の直前」、見える方向の目安は「東の地平線近く」ということが分かりました。そして、その月が見えるためにはいろいろな条件がまさにぴったり合っていなければならなかったということも分かりました。まず、天気。11月19日、天気予報では雪。この時期、しかも、山の麓となれば吹雪いてもおかしくないのですが、雲一つ無い穏やかな晴天でした。次に場所。宿泊していたのは、東の窓から、近くに津軽の山並み、遠くに八甲田の山も眺望できるホテルでした。そして時刻。同室のお二人がお風呂にいったからこそ目覚めることのできた時刻。これらの条件が全て重なって、出会えたお月様だったのです。
 ひろさき親子内観研修所の竹中先生が、「内観するとご主人に会えますよ」とおっしゃったお言葉を思い出します。内観に関わった二回、主人に出会えました。
 最近「千の風になって」の詩、曲を知りました。大切な人を亡くしたとき…悲しみをこえて生きる勇気を与えてくれる。`いのちの歌´とありました。
 「大切な人を亡くした人が、亡くなった人を思い、亡くなった人を感じたいと思っている。そして大切な人は、風、光、星や雪になって共にいる。」ということが分かりました。主人が亡くなってからの私は自分のことしか見ていませんでした。小さな心で、今の状態を悲しんだり、恨んだり、私だけが悲しくて、私だけが不幸せだとも思っていました。でも、私だけではなく多くの人が大切な人を亡くしているということに、初めて思い至りました。そして、詩にあるように私の主人も、月になり、星になり、風になり、光になっていつもいつも私と共にあることを確信しました。
 私が、今こうしていられることに感謝します。
    
 千の風になって
              英語詩:作者不詳 日本語詩:新井 満 作曲:新井 満
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの 大きな空を
吹きわたっています

内観の詩―親つなぎ・子つなぎ

真栄城輝明(大和内観研修所)
 
 熊本県の蓮華院誕生寺を訪ねたときのことである。そのお寺は世界一大きな「飛龍の鐘」を有し、奈良の西大寺より分流として正式な免状を与えられたという「大茶盛」でも有名だ。そして、最近では、平成14年にはあのダライ・ラマが訪れて講演したことで人々に知られているようだが、内観の世界では、内観研修をおこなっているお寺としてよく知られているところである。
内観面接を担当されている大山真弘和尚の案内で「飛龍の鐘」を撞いたあと、境内を見てまわったのであるが、立ち並ぶ詩碑を前に私は動けなくなってしまった。
そこに「ウヤチナギ・クヮチナギ」が結晶された小学生の詩を見つけて足が止まってしまったのである。その詩は、「親を大切にする子供を育てる会」(川原真如会長)が主催する第2回こどもの詩コンクールで特別奨励賞を授与されたようだ。詩の題は,ごくありふれた「宿題」となっていたが,その内容と言えば,まさに内観の詩であった。親子の絆(ウヤチナギ・クヮチナギ)が見事に表現されていた。全文を紹介しよう。


宿 題
              弓削小学校六年  中村 良子
今日の宿題は つらかった
今までで いちばんつらい宿題だった
一行書いては なみだがあふれた
一行書いては なみだが流れた

「宿題は,お母さんの詩です。」
先生は そう言ってから
「良子さん。」
と 私を呼ばれた
「つらい宿題だと思うけど
がんばって書いてきてね。
お母さんの思い出と
しっかり向き合ってみて。」

「お母さん」
と 一行書いたら
お母さんの笑った顔が浮かんだ
「お母さん」
と もうひとつ書いたら
ピンクのブラウスのお母さんが見えた
「おかあさん」
と言ってみたら
「りょうこちゃん」
と お母さんの声がした
「おかあさん」
と もういちど言ってみたけど
もう 何も 聞こえなかった

がんばって がんばって 書いたけれど
お母さんの詩はできなかった
一行書いては なみだがあふれた
一行読んでは なみだが流れた
今日の宿題は つらかった
今まででいちばんつらい宿題だった
でも
「お母さん」
と いっぱい書いて お母さんに会えた
「お母さん。」
と いっぱい呼んで お母さんと話せた
宿題をしていた間
私にも お母さんがいた
 


【評】実感のこもった詩である。私は小学校三年生の時,父を亡くしたので,若し私に「父」という題で詩を書けと言われたら,こんな詩を書いたであろう。最後の六行が実にいい。

評者は詩人で審査委員長の坂村真民のようだ。評者が評価する「最後の六行」こそウヤチナギ・クヮチナギ(親子の絆)そのものだと言ってよい。ここで沖縄語を解説すると,ウヤとは親のことであり,クヮとは子のことであり,チナギとは繋ぐことを意味する。したがって,言葉通りにそのまま共通語にすると「親つなぎ・子つなぎ」となる。この詩には,お母さんがいつ亡くなったかは記されていないが,もはやこの世には存在していないということなので,親子は形の上では切れていることになる。その切れていた親子の絆をつないでくれたのが,宿題を出した担任の先生である。
「つらい宿題だと思うけどがんばって書いてきてね。お母さんの思い出としっかり向き合ってみて」と,ひとり良子さんを呼んで声を掛けた先生は,名カウンセラーあるいは有能な内観面接者のようだ,と言ってよいだろう。何しろ,小学生と言えば,お母さんに甘えたい年頃である。甘えたくても現実にはお母さんはもうこの世にはいない。甘えたい心を必死に耐えるしかなかったであろう良子さんにとって,確かに「今日の宿題はつらかった」に違いない。それなのに「今まででいちばんつらい宿題だった」と言いつつ,最後までがんばれたのは,担任の先生の励ましのお陰である。その先生に見守られて良子さんはお母さんとつながることができた。
もっと言えば,おそらく,先生は普段の学校生活を通して良子さんとしっかりとつながっていたように思われる。そうでなければ,こんなむつかしい宿題は出せないだろうし,出されても良子さんには取り組めるはずがないからである。
「最後の6行」を導いたのは,9行目から12行にかけての先生の言葉であった。内観面接者としてはつい注目したくなる箇所でもある。仮に沖縄のユタであれば,亡き母親を呼び出して娘の良子さんと母親を「つなぐ」ことができるかも知れないが,それはカウンセラーや内観面接者の仕事ではない。したがって,面接者は早期に親と離別した内観者と対面したとき,言葉を失ってしまうことがある。ユタと違って,面接者にできることはちょうど良子さんの先生がそうしたように,心をつないだ上で励ましつつ,相手を見守るしかないからである。しかし,そうすることはユタに劣らず,否,ひょっとしてそれ以上に相当なエネルギーを必要とする仕事なのだ,といってよい。このような面接者に見守られて,内観者は自力で「ウヤチナギ・クヮチナギ」を成し遂げていくのであるが,「私にも,お母さんがいた」と述べた最終行には,それが見事に表現されている。それは,まるで一週間,屏風の中に籠もって,集中内観を続けてきた内観者の言葉のようでもある。


(本文は、拙著「心理療法としての内観」(朱鷺書房)から抜粋し、加筆修正を施したものであるが、書き上げた日の12月15日の中日新聞のコラム「中日春秋」は、詩人の坂村真民(97歳)が12月11日に死去したことを報じている。心理学で言う「共時性」を感じた次第である。ご冥福を祈りたい。)

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