fc2ブログ
ブログ

私と内観

内観と掃除


        橋本俊之

「集中内観で掃除をしてから自宅でも掃除をするようになった。」
そんな話をよく耳にする。集中内観では、朝の5時に起床してから掃除が行われる。真栄城先生から「トイレの掃除をお願いします。道具はバケツと雑巾です」と丁寧に作法を教わる。眠い目をこすりながら聞いていたが、雑巾の種類が多いことには驚いた。「この部分はこの雑巾で。」「ここはこれで拭いてください。」このようにバケツと雑巾で掃除をする習慣がない。到底、雑巾の使い分けもできるわけがない。しかも、早くしないと最初の面接になってしまう。最初のうちはバタバタやっていたが、集中内観が進むに連れて、キメ細かい掃除が板につきはじめてきた。「ここはこの雑巾じゃない」「ここはこれで拭かなければレッドカードだ」と掃除の職人のように、こだわりを持ちながら掃除をしている自分がいる。とても新鮮で、なんだか楽しい。
「今日は畳に掃除機をかけてください。」
恥ずかしながら、生れてこの方、畳に掃除機をかけたことがない。どうやってやるのか分からないけれども、なんとかなるだろうと、いい加減に掃除機をかけていた。なかなかいい気分だ。ある日の朝、奥さんから「畳は目に沿って掃除機をかけてくださいね」と教えてもらう。「そうだったのか。」ちょっぴり自尊心が傷ついたけれども、気を取り直して、掃除機をかける。「おっと、これはなかなか手応えがあるものだな。」知らなくて恥ずかしい感じもしたが、何か課題がクリアされたみたいで嬉しかった。
掃除は身近なもので、当たり前であると思っていた。でも、一週間続けて、じっくりと掃除をしたのは生れてはじめてだったのかもしれない。とても新鮮で、楽しかったけど、大変だった。自分でやってみて、毎日掃除をしてくれているお母さんは、とても大変だったのだなと、有り難い気持ちになった。    
              (はしもととしゆき・大和内観研修所)
スポンサーサイト



内観をめぐるはなし(やすら樹)

シリーズ【内観をめぐるはなし】第60回

「文化差」談義
        
     大和内観研修所 真栄城 輝明



 どういうわけか、最近、国際学会や国際シンポジウムがアジアを舞台にして頻繁に開催されるようになった。そのことと関係するのかどうか、東洋文化が生んだ心理療法を代表して、日本からは森田療法とともに内観療法が国際学会から招かれる機会が増えてきたようだ。
 たとえば、昨年は八月の東京に継いで、九月の北京、10月のソウル、12月の上海で内観療法がシンポジウムに登壇している。
今年は4月の鎌倉のあと、5月の上海ではシンポジウムだけでなく、精神分析や行動療法と並んで、ワークショップの時間まで与えられた。 
さて、各セッションはもとより、ティータイムで外国の専門家と懇談しているとどうしてもお互いの文化差が話題になる。

アメリカ 「日本ではいじめられると自殺するといいますが、本当ですか?」

日本 「その通りです。とくに日本では周囲から無視されるとき、ダメージが大きくなります。ところで、アメリカはどうですか?」

アメリカ 「アメリカでは、いじめられると自殺ではなく、銃を持って相手を殺しますね」
コーヒーカップを銃に見立てて、ゼスチャーを交えながらアメリカの精神科医が話していると、初老のドイツ人教授が割り込んできた。

ドイツ 「以前、日独両国のうつ病患者を通して両国間の罪の意識のもちかたについて研究した論文を読んだことがあります。それによるとドイツ人は自分に課せられた義務や責任を果たせないとき、罪の意識を持ちやすいが、日本人は相手の期待に添えないとき、罪の意識が強くなるとありました。そうですか?」

日本 「たしかにそれはありますね。一九六四年に東京オリンピックが開催されましたが、マラソンで第三位になって日本の国立競技場に初めて日の丸を揚げた円谷幸吉選手は、一九六八年のメキシコ大会に出場する予定でしたが、その年、カミソリで頸動脈を切って自殺しました。遺書には、 “父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません”と書かれてあったそうです。日本中の期待が重荷に感じられたのでしょう。ところで、中国人はどうですか?」
どこまでも人間関係を重視する日本人は、今大会のホスト役への気遣いを忘れなかった。

中国 「中国人は日本人とは逆に、相手が自分を理解してくれないと思ったとき、ノイローゼになるケースが多いですね」
 中国人の言葉に、胸をなで下ろしている日本人に話題を戻してきたのは、ドイツの教授だ。

ドイツ 「さっきの話は、対人恐怖症が特に日本人に多いことと関係ありそうですね」

日本 「おっしゃる通りだと思います。ご存知のように、対人恐怖症というのは、家族や親戚などごく親しい間柄にある人たちの前では症状(赤面や視線および醜貌恐怖など)は出現しにくいだけでなく、自分とまったく関係のない不特定多数の通行人の前でもほとんど症状は出てきません。症状が一番出やすいのは、学校や職場、通学や通勤の乗り物の中、近所のスーパーマーケット、町内会などなんとなく顔見知りだが個人的にはそれほど親密ではない人たちの前に出て行くときです。他人に自分がどう見られるか、それが気になって症状が出てくるのです」
話の途中にアメリカの精神科医が口を挟んだ。

アメリカ 「内観療法が人間関係に焦点を当てた三つの質問を備えている理由が分かりました。自己の存在を神との垂直軸でみる西欧文化とちがって、人と人のあいだを重視する日本文化から生まれたことは自然なことです」
流石にロゴスの国の人は、論理が明快だった。

中国内観療法ワークショップ印象記

中日森田療法と内観療法新進展講習班印象記

    王 紅欣(無錫市精神衛生中心・精神科医)

一、講習班の開催
 2006年12月4日から8日まで上海精神衛生中心で「中日森田療法と内観療法新進展講習班」が開催された。中国の山東省、福健省、四川省、河南省、青海省、甘粛省、江蘇省、上海市など20の区域から50人の医者たちが参加され、筆者も聴講生の一人として参加させていただいた。
日本大和内観研修所の真栄城輝明先生と奥様、信州大学医学教室助教授、日本内観医学会理事長巽信夫先生、大阪心理相談センター榛木美恵子先生、榛木久実指導員、岡山県立岡山病院医療部長河本泰信先生など、7人の日本人の先生たちは遠路はるばる中国の上海までお越しください、講演をなさって、中国の内観の普及に支援してくださった。それに上海精神衛生中心肖沢萍院長からの応援で、王祖承教授、張海音副教授、唐文忠主任医師など先生たちも研究班で講義を行い、閉幕式まで成功した。

二、講演について
講演は「森田療法の基礎」、「内観療法の理論と実践」、「内観療法と森田療法との類似点と相違点」、「森田療法と内観療法の文化背景」、「日本における内観療法の歴史」、「中国における内観療法の歴史」、「外来森田療法の臨床応用」、「改良森田療法の臨床応用」、「依存症における内観療法の応用」などいろいろな面について行った。以上の講演に対して聴講生の医者たちはいろいろな質問を提出し、充実な研修だった。榛木美恵子先生の講演について、「浮気をした夫は妻の所に戻ったとき、内観をした妻はいったいどのような心理的な変化が起こり夫のことを受け入れたのか?」河本泰信先生の講義の後、「男性として女性になりたい、こういう人に対して内観療法は効くか?」などの質問が出され、先生たちは以下のように答えた。
榛木美恵子先生:内観をした妻は「夫に対して大変迷惑をかけましたなー」「夫からしていただいたことは夫にしてあげたことよりずいぶん多かった」「夫が浮気することを理解できるようになって、戻ってきて嬉しかった」と内観後に考え方が変わった。
河本泰信先生:単なる女性願望の男性に対しては、むしろ内観療法は効果がないと思ったほうがよい。しかし、お父さんの家庭内暴力が幼い心に傷をつけられ、男に嫌になった場合は内観が効くと思う。
今回の研修では、日本と中国の専門家たちは日本と中国の文化背景について、森田療法と内観療法の理論と治療機序について、興味深い講演を行った。時間の問題でより多くの質問ができなかったが、聴講生の医者たちは内観療法にだんだん強い関心を持つようになった。

三、筆者から感じたこと
幸いですが、筆者は鳥取大学で四年間留学し、川原隆造教授の下で内観療法の研究を行っていた。榛木美恵子先生は講演中に筆者のことを在席の皆様に紹介し、日本で内観体験の感想も紹介させてくださった。それのおかげで講演の合間に私は多くの聴講生の医者たちと内観について話し合い、いくつかの質問を受けた:「内観療法の技法は何ですか?」「面接者としていったいどのように指導しますか?」「内観療法の導入についてはどこか注意すべきですか?」「内観による心理的な変化はいったいなんでしょうか?」「内観療法は強迫障害に効きますか?」「内観療法による効果をどうやって評価しますか?」
自分の理解できる限りいろいろな質問について意見を出しましたが、いくつかのことを感じている。1.多くの医者が内観療法に関心を持つようになった。2.内観を体験したことがないため、具体的なやり方が詳しく知りたい。3. 内観中に面接者の役割について詳しく理解したい。
つまり、東方思想に基づく内観療法は中国の医者たちに理解されやすい、効果的な心理療法として、これから中国に普及する必要がある。

愛弟子が語る内観の創始者・吉本伊信師

吉本先生ご夫妻 こぼれ話
             本山 陽一
           (白金台内観研修所)
 
 
 
 吉本先生ご夫妻の思想、お人柄とその生活ぶりは、今でも私にとって人生の支えであり、指針です。かつて、偉人や伝説上の人物について書物で読み、憧れや尊敬、感動等を抱いたことはありましたが、現実に出会ったことはありませんでした。吉本先生ご夫妻は、まさにそれらの書物で描かれていたようなご夫妻でした。私は「現実にこんな人たちが存在するのだ」と驚いたとともに、現実だけに書物とは比較できないほどの影響を受け、人間の可能性について勇気をいただきました。今回、みすずの会の橋本さんからのご依頼を受けて、吉本先生ご夫妻をご紹介できる機会を得たのですが、とてもその人物像全体をお伝えする自信がありません。そこでいくつかのエピソードを記すことで私の役割を果たそうと思います。
 
 〈エピソード1〉
 突然、大声で泣き出した中年の女性が、次の面接で「吉本先生ご夫妻の会話をお聞きしていて、私は今まで何をしていたのだろう、と情けなくなりました」と話し出すのです。「ここで内観をしているとお二人の会話が聞こえてきます。お声だけ聞いていると、お互いが相手のことを思いやっているのが本当によく分かります。私たち夫婦と全然違う。私たちは汚い言葉で相手を傷つけたり、自分の主張ばかりしていて、お互いをいたわってやさしい言葉をかけたことがありませんでした。お二人の仲睦まじいお姿を拝見させていただけただけでもここにきた甲斐がありました」
 私が吉本先生のお手伝いをしていたときの面接体験です。
 
〈エピソード2〉
 いつも奥様は、先生に「何か私に(妻として)こうして欲しいという注文はありませんか」とお訊きになり、その度に先生は「何もありまへんなあ、感謝しています」と応えておられるご夫婦でした。
 夫婦が50年以上も仲良くいられる、いや、むしろその愛情が深まっていっていると思われる背景には、お互いの自分の中に潜む我という悪魔と絶え間なく戦ってこられた結果だと思われます。人間の営みはすべて、そこに参加している人々の努力がなければ崩壊するもので、いい家庭の裏にはお二人の人には見えないところでのご努力があったと考えるのが自然でしょう。
 表面的には奥様の先生に対するサービスが目立ちましたが、お側でお二人の日常生活を垣間見ていると、伊信先生の陰での奥様に対する気配りも相当なものだったと私は推察しています。
 〈エピソード3〉
 午前3時~4時に起床される先生の日課は、まず読経からです。それは居間で先生の母上の声の入ったテープをかけながら、その声に合わせてお経を唱えるといった気楽なもので、なにか呑気な雰囲気さえ漂うものでありました。亡き母親の声とともにお経を読むお姿は、お勤めというよりも小さな子どもが母親と戯れて遊んでいるかのように見えました。4時半頃、奥様が起床されて朝食の支度が始まり、5時5分前頃に放送で内観者さんに起床を促し研修所の一日が始まります。
 全盛期には、30人の内観者さんの面接を一日8回実行する、一回の面接時間が一人3分としても720分12時間、一人5分なら1200分20時間の面接時間になります。それを60代の先生が、長島先生とお二人でこなされ、内観者さんのお食事は奥様がほとんどお一人で作っておられました。夕食の後片づけが終わると、必ずご夫婦で一緒にお風呂に入られ、お休みになられました。それを年中無休で続けておられました。そんな生活を先生は「まるで遊び暮らしや」とおっしゃっていました。
〈エピソード4〉
 ある朝5時半頃、先生が面接のため階段を昇られているときに朝日が差し込んで来たことがありました。すると、先生は立ち止まり、朝日に向かい合掌されました。一分ほど合掌されると何事もなかったかのように、また面接に向かわれました。一階でふとその光景を目にした私は、その自然の動きと美しさに一人で感動に浸っていました。
 また、8月15日の終戦記念日の昼食のときに、テレビから年配の方が次々とお参りしている映像が流れてきました。その映像が流れると、先生は食事中の手を止め、テレビに映っている年配者の方々と一緒に合掌されるのです。テレビのシーンが次の映像に変わると、またいつものように食事を続けられました。
 このような暮らしに自然と溶け込んだ合掌や感謝が、超人的なスケジュールにあっても生活のゆとりを生み、研修所の穏やかでのどかな雰囲気を醸し出していたのだと思います。
 〈エピソード5〉
 先生の生活は本当に裏表のない生活でした。無理すれば45人も座れるほどの大きな家は、そのほとんどが内観者さんのために開放され、先生ご夫妻のプライベートな空間は、寝室として使われていた3畳ほどの小さな和室だけでした。一年中内観者さんの眼にさらされるプライバシーのない生活だったのです。
 その莫大な資産管理のためか、事業引退後も株をやっておられ、しかも相当な腕らしく「不思議なことにわたしが買った株は、全部値上がりするんですよ」と言われて楽しんでおられました。したがって、内観研修所に届く郵便物の中には、株や預貯金等、金銭に関するものも数多くありました。ところが先生は、お手伝いに伺ってまだ日の浅い私に「ここに来る郵便物はすべて見ていいですから」と言われるのです。一緒に働く人間を全面的に信用される先生の懐の大きさと、秘密を持たない生活ぶりに私は圧倒されました。
 〈エピソード6〉
 ある時、ちょっと恐い関係の方が内観に来られたことがありました。内観がなかなか進まず、何度面接に伺っても3つのテーマが答えられませんでした。まだ若くて生意気ざかりの私は、何も答えないその方にしびれをきらして「していただいたことにどんなことがありましたか?」と答えを催促しました。すると突然「分かってんだよ!」と家中響き渡るような大声で怒鳴られました。私は内心「しまった!」と思ってあわてて土下座して謝りました。その方は、機嫌を直して内観を続けてくださいましたが、あの怒鳴り声は階下の先生の耳にも届いたはずです。
 私は「自分の面接で内観者さんを怒らせたことを先生は何と思われるだろうか、常々『内観者さんは菩薩様だ。人間ほど自分勝手な動物が内観をするのはよくよくの縁だから、大切にするように』と教えを受けていたのにどうしよう」と思いながら一階に戻り、ヒヤヒヤしながら居間に入って行きました。すると、先生はおっとりした声で「ええ修行させてもらってまんなあ」と一言おっしゃっただけでした。私はその一言に本当に救われた気がしました。今から考えると、たぶん悄然として居間に入って行く私の様子を見た先生の慰めの言葉であったのだろうと思われます。先生には厳しさの中にこういうやさしさも常に備えておられました。
 〈エピソード7〉
 元来、粗忽な私は数々の失敗もありました。それを蔭で支えてくださっていたのがいつも奥様でした。お風呂を沸かしていたのを忘れていて慌てて風呂場に飛び込んでいくと、いつの間にかガスのスイッチは切られ、内観者さんのお風呂の用意までできていたことも度々でした。そのことについて注意されたことは一度もありません。ただ、黙って私の不始末をカバーしてくださいました。そんな奥様に面と向かってアドバイスされたことが一度だけありました。
 それは、今から23年前、私が初めて内観研修所を開設するときです。「研修所を開設するといろいろなことがあると思いますが、私は本山さんが大変なときは心配していません。むしろ、順調に行き始めたときが心配です。いいときほど危ないですよ。油断しないで下さい」この言葉と「無理はいけませんよ。無理をしないように」という言葉は、今でも白金台内観研修所の運営方針の大きな柱になっています。
 〈エピソード8〉
 先生はいつも謝ってばかりおられました。内観者さんにアドバイスした後は「生意気言ってすんません」、オリエンテーションでお風呂や洗面台の水を出しっぱなしにしないように注意された後では「ケチ言ってすんません」、参考に自分の体験談を話された後でも「自慢話みたいなことを言ってすんません」といったふうです。
 ある日、電話に出られた先生が「はい、内観研修所ですが、はい、吉本は私ですが、はっ、申し訳ありません」と謝っておられました。受話器を置くと「吉本というのはお前か、内観で金儲けをしているのは!」と叱られたとおっしゃり「仏さんに代わって、注意してくださってんやなあ」と相手の言葉を真摯に受け止めておられました。また、窓を開けて内観研修をする夏に、内観中に流れるテープの音がうるさい、との匿名の苦情電話があったときも、一切の不平を口にせず、菓子折を持っておぼつかない足取りで、ご近所を一軒一軒謝って歩いておられるお姿も思い出されます。
 〈エピソード9〉
 先生は合理主義者でもありました。いつも「今晩死ぬかもしれへんから」と本の注文やいろいろな頼まれごとも、すぐに対応されました。仕事を翌日に持ち込むことがなく、まさに一日一生の生活でした。そのことが、最も効率的で精神的にも負担がないやり方だ、と実際に実行してみて愚鈍な私にもわかりました。
 資料請求の電話があったりすると、先生は相手の住所と名前を聞きながら封筒に表書きをしておられました。電話を切ったときには、すでに宛名書きが終わっていて、私は思わずうなってしまいました。先生の生活はすべてがこのようで「頭は生きているうちに使え」と奥様はよく叱られたそうです。
 〈おわりに〉
 最後に意識がなくなるまで、生活の基本は変わりませんでした。お身体や能力がどんなに衰えても、先生の人格、性格は少しも変わることなく、感情を乱し八つ当たりしたり、我が儘をおっしゃったりすることは一度もありませんでした。最後まで奥様以外の人に頼みごとはなさらず、奥様が傍にいないときは、おぼつかない足取りでご自分で用事をしようとなさいました。私たちが気を利かせて先にして差し上げると、合掌して「ありがとうございます」と必ずお礼を言われていました。 
 相手が弟子であろうと誰であろうと関係なくお礼を言われていました。奥様に対してでさえ、身の回りの世話をしてもらうと「すまんなぁ」と本当にすまなそうに感謝の意を表しておられました。そんな先生の内面が、最期の場面を美しいものにしていたと今も思います。最後の口癖は「すんません」「ありがとうございます」「おまかせします」でした。最晩年は、柔らかい面も感じられ赤子のような笑顔もよく見られましたが、厳しさも失わず、研修所には穏やかではあるが、厳粛な雰囲気がみなぎっていました。奥様と私がちょっと雑談をしていると「その話は内観とどういう関係がありますか」とやんわり口調でたしなめられました。先生の頭の中は、最後の一瞬まで内観のことだけを考えておられたご様子で、本当に内観一筋の生活でした。

学会印象記

中日森田療法と内観療法新進展講習班印象記
         
             王 紅欣
       (無錫市精神衛生中心・精神科医)
一、講習班の開催
 2006年12月4日から8日まで上海精神衛生中心で「中日森田療法と内観療法新進展講習班」が開催された。中国の山東省、福健省、四川省、河南省、青海省、甘粛省、江蘇省、上海市など20の区域から50人の医者たちが参加され、筆者も聴講生の一人として参加させていただいた。
日本大和内観研修所の真栄城輝明先生と奥様、信州大学医学教室助教授、日本内観医学会理事長巽信夫先生、大阪心理相談センター榛木美恵子先生、榛木久実指導員、岡山県立岡山病院医療部長河本泰信先生など、7人の日本人の先生たちは遠路はるばる中国の上海までお越しください、講演をなさって、中国の内観の普及に支援してくださった。それに上海精神衛生中心肖沢萍院長からの応援で、王祖承教授、張海音副教授、唐文忠主任医師など先生たちも研究班で講義を行い、閉幕式まで成功した。
二、講演について
講演は「森田療法の基礎」、「内観療法の理論と実践」、「内観療法と森田療法との類似点と相違点」、「森田療法と内観療法の文化背景」、「日本における内観療法の歴史」、「中国における内観療法の歴史」、「外来森田療法の臨床応用」、「改良森田療法の臨床応用」、「依存症における内観療法の応用」などいろいろな面について行った。以上の講演に対して聴講生の医者たちはいろいろな質問を提出し、充実な研修だった。例え:石井光先生の講演について、「ベトナム戦争に参加したアメリカ軍人に対しても内観をさせましたが、どんな機序で彼らの不安を減らしたのか?」榛木美恵子先生の講演について、「浮気をした夫は妻の所に戻ったとき、内観をした妻はいったいどのような心理的な変化が起こり夫のことを受け入れたのか?」河本泰信先生の講義の後、「男性として女性になりたい、こういう人に対して内観療法は効くか?」などの質問が出され、先生たちは以下のように答えた。
ある人は「自分が悪い事をした」ということを秘密として心の底に隠されている。それを言えなくていつも不安を生じる原因の一つとなっている。内観を通じて、「ある日ベトナムの村民を殺した」面接者に言って、懺悔するだけで不安を減らした。
榛木美恵子先生:内観をした妻は「夫に対して大変迷惑をかけましたなー」「夫からしていただいたことは夫にしてあげたことよりずいぶん多かった」「夫が浮気することを理解できるようになって、戻ってきて嬉しかった」と内観後に考え方が変わった。
河本泰信先生:単なる女性願望の男性に対しては、むしろ内観療法は効果がないと思ったほうがよい。しかし、お父さんの家庭内暴力が幼い心に傷をつけられ、男に嫌になった場合は内観が効くと思う。
今回の研修では、日本と中国の専門家たちは日本と中国の文化背景について、森田療法と内観療法の理論と治療機序について、興味深い講演を行った。時間の問題でより多くの質問ができなかったが、聴講生の医者たちは内観療法にだんだん強い関心を持つようになった。
三、筆者から感じたこと
幸いですが、筆者は鳥取大学で四年間留学し、川原隆造教授の下で内観療法の研究を行っていた。榛木美恵子先生は講演中に筆者のことを在席の皆様に紹介し、日本で内観体験の感想も紹介させてくださった。それのおかげで講演の合間に私は多くの聴講生の医者たちと内観について話し合い、いくつかの質問を受けた:「内観療法の技法は何ですか?」「面接者としていったいどのように指導しますか?」「内観療法の導入についてはどこか注意すべきですか?」「内観による心理的な変化はいったいなんでしょうか?」「内観療法は強迫障害に効きますか?」「内観療法による効果をどうやって評価しますか?」
自分の理解できる限りいろいろな質問について意見を出しましたが、いくつかのことを感じている。1.多くの医者が内観療法に関心を持つようになった。2.内観を体験したことがないため、具体的なやり方が詳しく知りたい。3. 内観中に面接者の役割について詳しく理解したい。
つまり、東方思想に基づく内観療法は中国の医者たちに理解されやすい、効果的な心理療法として、これから中国に普及する必要がある。

心理療法としての内観

「心理療法としての内観」(朱鷺書房、2005,3,25発行・2800円)


はじめに――心理療法と内観とそして私

心理療法が今ほど世間に知られていなかった1970年代初頭のことである。当時,私は心理学科に入学したばかりの学生であったが,卒業後の仕事として「心理臨床」に就こうと考えていた。そのことを臨床心理学専攻の先輩に相談したところ「臨床に進みたいというなら,世界には心理療法の種類はどれくらいあるのか知っているのか?」と早速,口頭試問をうけるはめになった。
その場で,思いつくままに指を折ってみた。「精神分析,催眠療法,行動療法,自律訓練法,カウンセリング……」と持てる知識を総動員して挙げてはみたが,すぐに詰まってしまった。両手どころか,片手がやっとであった。すでに大学院に在籍していたその先輩は,おそらくその種の文献にでも目を通したのであろう,「まぁ,少なくとも150種類くらいはあるらしいぞ」と言って後,次々に私にとって初めて耳にする心理療法の数々を挙げて見せた(今日では心理療法の種類はさらに400を数えるまでになったと言われている)。
しかし,そのほとんどは西欧で生まれた心理療法であった。先輩は,国産の心理療法として森田療法を挙げてはいたが,その口からは内観療法の「な」の字も出てこなかった。臨床心理学専攻の大学院生といえば,心理療法について最新の情報に最も敏感なはずなのに知らなかったのか,あるいは,当時,大学では内観療法がまだ認知されていなかったのであろうか?
その内観であるが,創始者の吉本伊信(1916~1988)が奈良県大和郡山に「内観道場」を開いた

のは1953年のことである。その後,「内観道場」は1957年に「内観教育研修所」と改称され,矯正教育界を重点に導入され発展しつつあった。
それから14年が経って,1971年にはさらに「内観研修所」とその名称を変えている。
この一連の名称の変遷理由について私は,次のように考えてみた。
すなわち,研修所が開設された当初は,自己変革や悟りを開くためのいわゆる修行法としての内観を目指していたので,「内観道場」と呼ぶのがごく自然なことであった。その後,吉本伊信の精力的な普及活動が実を結んで,矯正教育界に内観が定着し始めると「内観道場」と呼ぶよりも「内観教育研修所」の方がふさわしい名称になったと思われる。そして,時は流れ,時代は心の時代へと進んでいく。70年代に入って精神医学や臨床心理学が内観に関心を向け始めると,これまで内観法と呼ばれてきた内観は,内観療法とも呼ばれるようになった。来所してくる内観者の顔ぶれも時代とともに多彩になっていった。精神科医や臨床心理士の体験者が増えたこともあって,臨床家が自分の担当するクライエントを紹介してくるようになったからである。そこで,研修所の名称から「教育」の文字が削除された。「教育」に限定しない「内観研修所」と改称されたことと関係あるのかどうかはさておき,マスコミなどが取り上げたこともあって内観の知名度は急速に高まっていった。     
1968年5月9日,NHK教育テレビは,「心の転機」というタイトルで内観を紹介しているが,おそらくそれがマスコミに内観が登場した最初ではないだろうか。そして,翌年の1969年8月に,今度はNHKテレビが「人間の心と体」という番組で内観を取り上げている。
そして,その後,約9年の歳月が流れた。
1978年10月8日,NHK教育が「瞑想の時代」を放映したのを機にその後は,民放でも取り上げるようになった。その頃,テレビで放映されたものからその一部を時代順に並べてみる。
1979年3月11日,日本テレビの「煩悩即菩提」
1980年6月28日,NHKの「一万巻の懺悔録」
1981年5月10日,読売テレビ「合掌園」
1981年9月24日,フジテレビ「リビング2」
1981年10月27日,NHK「無処罰の学校めざして」などが相次いで放映されている。
このようにマスコミで取り上げられたことの影響もあってか,内観者も年々急増していった。
実際,吉本伊信の研修所には,毎週30名前後の内観者がやってきて,年間に千名を越えるほどの盛況ぶりであった。そんな状態なので,大和郡山の研修所だけでは対応しきれず,吉本は熱心な内観者でこれはと思う人には,研修所の開設を勧めていたようである。勧められて研修所を開いた人の中には,脱サラやあるいは本業を続けながら兼業として始める人など様々であった。
ところで,私が「内観」の存在を知ったのは,70年代も後半になって,確か,学会が設立される2年前のことであった。精神病院の臨床心理室に勤めて間もない頃に,当時,病院臨床の仲間が集まって,故・村上英治教授(名古屋大学)の元で定期的に研究会を開催していた。
その研究会の場で,奈良県大和郡山にて内観を体験してきたばかりの杉本好行氏(南豊田病院)はレポーターを務めて持参の内観テープを紹介した。私はそれを聞いて衝撃を受けた。衝撃の理由は,カウンセリングでは遭遇したことのない慟哭して懺悔する声に接してのことであった。 
氏のレポートに心を動かされた私は,すぐに大和郡山の吉本伊信師を訪ねた。以来,24年の歳月が流れ,時は,2000年を迎えていた。私は,吉本伊信亡き後の内観研修所に仕事の場を移した。そのあたりのいきさつは拙著『心理臨床からみた心のふしぎ』(朱鷺書房)に述べたので,ここには繰り返さない。
ただ,私の心理臨床の歴史はほとんどそのまま内観学会の歴史と重なる。今年の2004年5月,日本内観学会は,第27回大会(三木善彦大会長)を神戸で開催しているが,私の臨床年数はそれに2年を加えるだけである。およそ臨床歴30年という節目を目前にして,これまでの内観臨床で考えてきたことをまとめてみようと思い立った。
本書では,これまで機会あるごとに発表してきた私自身のささやかな内観研究がベースにはなっているが,しかし単にそれらを羅列的に提示するのではなく,臨床経験を中心に据えて,できれば他の関連する文献なども参考にしながら「心理療法としての内観」について考察してみようと思う。 
本書を書き出すにあたり,少しばかりの期待がある。学生や一般の読者がこの書を手に取ったとき,「一度は内観というものを体験してみようか」という気持ちが湧いてくるような,そして,すでに内観に精通した専門家に読んでもらったときには,「へえー内観をそういうふうに考えることもできるのか,なるほど,それならば,自分はこの視点から新たな内観研究を展開してみよう」などと研究意欲を刺激できる内容になれば,嬉しい限りである。また,精神科医や臨床心理士などいわゆる「心の専門家」はもとよりであるが,教師や看護師,各種のカウンセラーなど悩む人たちの援助を仕事にしている方々が本書を手にしたときには,「自分の担当しているケースに内観というものを紹介してみようか」という気持ちになっていただければ,私としてはこれ以上の喜びはない。
ささやかな希望を述べたつもりであるが,欲張りすぎた感もある。私の力不足を補って読んでいただける,そんな良き読者に巡り会えることを祈って,本書を送り出したい。                                  
2004年7月2日
 著者  

 上海・蘇州・杭州を訪ねて


大和内観研修所 真栄城 輝明

 

はじめに
 平成17年11月8日から17日まで上海・蘇州・杭州を訪ねた。
 上海精神衛生中心が主催した内観療法が学会へ出席した後、アジア心理衛生学会のシンポジウムに参加したわけであるが、その合間を縫って蘇州大学院や杭州の単科大学(3年制)に招かれた。ワークショップは上海精神衛生中心を、二つの学会はそれぞれ別のホテルを会場にして開催された。講演の内容こそ違ってはいたが、私に与えられたテーマには、「内観療法」が共通して入っていた。
 とりわけ、最初の内観療法ワークショップは15分の休憩を挟んで、3時間という長時間が組まれていた。講演に2時間。残った時間を質疑にあてられた。質問をもらって私は八事時代の分散記録内観やひがし春日井で実践してきた集中内観などを紹介した。

 ワークショップでの質問

 周知のように、中国は目下、経済の高度成長期である。そしてお決まりのように、アルコールや薬物依存症が急増しているという。その結果、犯罪者となって医療刑務所に入所してくる人も少なくないようだ。今回のワークショップにも刑務所に勤める精神科医の参加が目立っていた。したがって一番熱心に質問してきたのも彼らであった。いくつかの質問に答えているうちに私の八事病院時代のことがいろいろと思い出された。
 たとえば、「屏風ってどういうものですか?それがないと内観療法は出来ませんか?」という質問を受けたとき、私はつい、屏風の機能とその歴史から話し始めたのである。 
「屏風は文字通り『風を防ぐ』調度でした。しかもそれは、お国の周の時代に誕生したのです。韓国を経由して日本には伝わりました。天武天皇の朱鳥元年の4月、新羅から送られたのが最初でした。風を防ぐのは壁ですが、屏風には、壁の持つ『防ぐ』『もたれる』『遮る』『囲う』『仕切る』『飾る』という機能だけでなく、実用的、装飾的レベルで多機能に用いられているのが特徴です。そして、何と言っても壁は動かせないが、屏風は自由自在に可変可動なのが魅力です。」とそこまで話したとき、若い熱心な精神科医がこう訊いてきたのである。
 「今の中国の病院では、屏風のようなものはありません。日本ではどうですか?先生が病院の中で屏風を採用されたとき、苦労はありませんでしたか?」
 そう訊かれて、私は八事時代の屏風にまつわるエピソードを思い出した。

 八事時代の屏風の思い出
 八事病院のアルコール治療が導入されることになったとき、私がそれを担当することになった。集中内観の導入も一応話題にはなったが、それは到底無理だということで、分散内観を導入することになった。始めのころは、夕方の病棟で、診察室を一時間だけ提供してもらった。診察室の床に新聞紙を敷いて壁に向かって座るのである。しかし、夏はともかく、冬は下半身が冷えて内観どころではなかった。しかも、屏風があるわけでもなく、狭い診察室に数人も座れば触れ合うほど込み合って、たいてい隣同士でおしゃべりが始まってしまうのが落ちであった。
 そこで、毎日1時間という限定で内観室を畳のある病室に移し、屏風を作ってもらうことにした。
 ところが、屏風を作る段になって看護スタッフからクレームがついたのである。
 「たとえ屏風とは言っても、アル中さんたちを一人で看護者の目が届かないところにおくと何をするか分からないので心配です。」
 精神病院ではアルコール依存症に対する不信感は相当なものがある。八事の看護者も例外ではなかった。看護者の声を無視するわけにもいかず、妥協の産物として背丈の低い屏風が作られた。廊下を巡視の看護者が屏風の中に座っている人の頭が見えるようにしたのである。そういうわけで、八事の屏風は普通の屏風に比べて背丈が低くなっているはずである。そんな背の低い屏風ではあったが、その効果は目を見張るものがあった。まず、おしゃべりが消えたし、屏風に守られて落ち着いて内観に取り組むようになった。(今でも背の低い屏風を使っているのだろうか?それとも病院の建物も新しくなったので、屏風も新調されたのだろうか?機会があれば、是非、拝見してみたいと思っている。)
 さて、上海でのスケジュールは過密であったが、その過密の合間を縫って、蘇州大学へ伺った。心理学科の大学院生を対象に2時間半の講演をしてきたが、ここに蘇州大での詳細を記す紙幅の余裕はない。ただ、一つだけ述べるならば、上海から車で1時間余の蘇州の景色も近代ビルが増えていた。環境汚染も含め今後の中国の行く末が案じられた。
 上海の都市化現象は、異常なスピードだ。止む気配はない。そして、それは今や蘇州にまで広がりつつあると見た。都会はそれだけでストレスだ。次のアジア精神衛生大会までに二日間の空きが出来たので、杭州へ休息をかねた小旅行を思いついた。杭州にいる古い友人夫妻が、学会の懇親会が行われているホテルまで自家用車で迎えに来てくれた。友人は上海から杭州まで片道約百五十キロの距離を往復してくれた。中国人の客人への最大のもてなしが送迎だという。私は、恐縮しつつ、友人の好意に甘えた。到着したとき、夜の十時をまわっていた。空気は澄んで、道路の左右に翼を広げた白樺並木に安らぎを覚えた。かつて、アメリカのニクソン元大統領を感激させたという西湖とその周辺の緑は、いまなお健在のようだ。この緑の中で、ゆったりと散策しながら森林沼を楽しむはずであった。
 ところが、そこに暮らす知己の中国人家族から夕食に招待されて歓談しているうちに事情が一変した。友人が教鞭をとっている単科大学にて、急遽、特別授業を行うことになったのである。
 「クラスの優秀な生徒たちは、いま日本で研修中なのですが、残っている3分の1の学生は劣等感が強く、学習意欲も沸かず、授業中居眠りする子が多く、教師として困っています。彼らが自信を持ち、前向きになるような話をして欲しいのです。」
 担任でもある友人の要請を断るわけにもいかず引き受けることにした。日本語学科の教室の教壇に立った私は、講じるのを控えて、学生たちの話を聴くことから始めた。話すよりも聞くことが私の本職だから。そして、進路に迷い、生きる意欲さえ失いかけている学生たちの話を聴いて驚いた。
 「金持ちにはなったが、父親の酒量が増え、両親の喧嘩が絶えない。」というのである。中国の繁栄の陰は、なんと杭州にまで広がっていたのである。


(本文は、八事病院断酒のつどい同窓会文集から転載しました)

―巻頭言―

内観の国際化を迎えて


真栄城 輝明(大和内観研修所)
 
今、この国で内観(療法)が俄に注目を集めている。
たとえば、ちょっと本屋に立ち寄ってみたところ専門書はもとよりであるが、一般書のコーナーにおいても内観の文字を付した本が目に入ってくる時代なのである。
このことは、1953年に吉本伊信が奈良県大和郡山に内観道場を開設したころに比べると隔世の感を覚えよう。いや、それほど遠い時代でなくて、1978年の日本内観学会(当時は内観学会と称した)が発足した当時と比べてみても内観の知名度は飛躍的に高まっている、と言ってよいだろう。
ここで本誌を発行している「日本内観学会」の名が出たのでついでに言ってしまうが、第1回大会(京都御香宮)に一般演題として16本の研究発表がなされて以来、昨年の第27回大会(神戸松蔭女子学院大学)までの間、実に521本を数える研究の成果が積み重ねられてきたことを思えば、隔世の感はなおさらに強いものがある。そして、ことのついでにもうひとつだけ記しておくとするならば、本誌は1995年に創刊号を送り出して以来10巻を数えるが、原著論文を中心に特別寄稿や特集論文、あるいは事例報告や論点を組む一方で、学会印象記や資料などを掲載して、内容の充実を図って今日に至っている、ことである。
ちなみに、今号の特集は時代精神を反映した「倫理」に焦点が当てられている。
 さて、本誌は今号で第11巻目となるが、姉妹たちの活躍も目覚しい。とりわけ、1990年に発足された自己発見の会が発行している「やすら樹」に至っては、なんと第89号を数えたというではないか。一般への啓蒙書としてこれ以上の活躍ぶりはない。うれしいことである。そして、もうひとり忘れてはならない姉妹がいる。その名は「内観医学」と呼ばれ、内観医学会が母胎となって発行している学会誌のことであるが、内観の理論化に向けて取り組む姿勢は頼もしい限りだ。
 さらに、海の向こうでの内観の活躍ぶりも聞こえてくる。
 隣の韓国からは、2003年5月に韓国人間関係学会と共催して第1回韓国内観学会を開催したことが伝えられたかと思えば、同年の9月にはドイツから第5回目の内観国際会議を開催した、と伝えてきた。その国際会議であるが、1991年に世界の9カ国からの参加者を集めて東京で第1回大会を開催したあとは、3年ごとに日欧を中心に開催されている。このように、2003年は、どういうわけか、内観の催しが目白押しであった。10月には、第6回内観医学会と共催で第1回国際内観療法学会までも鳥取で開催されて盛会であった。そして、2004年のトピックを挙げるならば、今、この国で最大の学会員(一万人を超えた)を擁する日本心理臨床学会の大会で、内観の自主シンポジウムが開催されたことであろう。この学会で内観の認知度が高まれば、内観人口の増加が期待されよう。
 人口といえば、世界一は中国だ。その中国の上海は精神衛生中心で、第2回国際内観療法学会が開催されることになっている。今年の2005年11月11・12日の両日のことである。詳しい内容は本誌の中に案内されているとおりであるが、世界の人口の4人に1人が中国人というわけだから、いよいよ内観の国際化は加速を増すことになろう。そうなれば、本誌に寄せられる期待と役割はこれまで以上に重要なものになってこよう。ますます会員諸氏の研鑽と精進が望まれるところである。


(本文は、2005年5月12日発行の内観研究第11巻第1号の巻頭言から転載しました)

カテゴリー

プロフィール

大和内観研修所

Author:大和内観研修所
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク