シリーズ【内観をめぐるはなし】第59回
心の教育―いかに生きるか
大和内観研修所内 真栄城 輝明
去る3月10日、沖縄内観研究会(長田清会長)は、沖縄県の教育委員長に就任したばかりの中山勲先生を招いて、表題のテーマで対談形式による講演会を開催するというので、わたしは奈良発の始発電車を乗り継いで、関空発の一番機に搭乗した。というのも、いじめによる自殺の問題など、混迷する教育界に対して何を提言するのか、関心があったからである。
さて、会場に着いてみると、受付も開始されていないのにすでに参加者の姿があった。時間にルーズな沖縄では珍しいことだ。聞けば、問い合わせ先の沖縄内観研修所の電話も鳴り放しとのこと、テーマと講師が人を集めたようだ。
対談の相手は、精神科医で現在は心療内科のクリニックを開業している長田清院長だ。ふたりは大学が先輩と後輩というだけでなく、六年前までは職場を同じくしていたこともあって、気心の知れた間柄のようであり、対談ではまず、丁々発止の出だしで会場を沸かせた。
長田 「中山先生を一言で表現するならば、真面目でお堅い哲学者と言いますか、まぁ仙人と言ったほうがよいかも知れません」と座ったままで中山先生を紹介したのに、その中山先生ときたらスッーと立って、聴衆に一礼したあと、
中山 「みなさんこんにちは、今、長田先生は誰かよその人のことを言っているようでして、自分のことには思えませんねぇ。わたしはごくふつうの平凡な精神科医です」と言えば、すかさず、長田先生がこう切り返す。
長田 「ホラ、僕が座って話しているというのに、こういうふうにわざわざ立ち上がって、みなさんに一礼までするところが真面目である何よりの証拠です。以前の病院長が年下の中山先生を“日本のお父さん”と評したときは、どうもいまひとつ合点がいかなかったのですが、その後、付き合ってみて、その通りでした」
なるほど、対談が進むにつれて、われわれ聴衆にもその意味がよく分かってきた。
“日本のお父さん”は読書を好み、内村鑑三や中江藤樹に始まって、カントやゲーテまで引き合いに出して教育論を開陳したが、言い忘れてはまずいということで結論を先に述べた。
中山 「一人ひとりの命はかけがえのない貴重なものです。テーマの“いかに生きるか”に対するわたしの答えは、“自分に与えられた命をいかに使うかだ”ということです」
“日本のお父さん”は律儀なのである。その姿には、この国が弱点としてきた“父性”が見事に体現されていた。長田先生のリードも巧みだった。いつの間にか話を子ども時代に導いて、中山少年の両親まで登場させてしまった。
中山 「父は一人で夜空を眺めながら、小さなものを慈しむ人でした。母は生活のために髪を振り乱しながらも“品正”にこだわった」
両親の影響を受けて成長した中山先生は、教育委員長に就任した抱負を、こう述べた。
中山 「沖縄はスポーツで頑張っていると報告を受けて、本当に素晴らしいことだと思います。しかし、勝った子や優勝した子の下には無数の負けた子、挫折した子がいることも忘れてはいけません。勝ち組を褒めるだけでなく、努力したが負けた子ども達を評価することが大切です。負けて味わう価値もあり、どのような体験でも人生を豊かなものにすることには役に立つということを、大人が教えることによって子どもの人格は成長します」
対談を聴きながらこう考えた。父という存在は、子どもに夢を与え、未来への出立を促すが、母という存在は、現実に根を下ろし、個人の出自を揺るぎないものにしてくれるらしい。
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【第一回韓国内観療法ワークショップ印象記】
カムサハムニダ! シェーシェ! ありがとう!
立命館大学大学院応用人間科学研究科 橋本 俊之
平成十八年十月二十日に韓国・ソウルで行われました、記念すべき第一回韓国内観療法ワークショップに参加させていただきました。
はじめての韓国です。平成十八年八月、大和内観研修所にて二度目の集中内観を受けさせていただきました。座談会が終了しまして、ご挨拶申し上げた際、真栄城輝明先生から「十月に韓国で内観のワークショップがあります。韓国、中国からたくさん参加されるようです」という言葉がありました。私にとって韓国は「近くて遠い国」です。行きたいけれども、縁がないと感じていたのですね。でも、集中内観直後の私はとても素直になれました。「このような縁を大事にしたい。このような機会でもないと、もしかして一生韓国に縁がないかもしれない」と思いまして、参加をお願いした次第です。
ワークショップの前日、韓国・仁川空港のロビーに降り立ちまして、当然のように日本語が姿を消しているのに驚きます。でも、不思議と異国にいる感じがしませんでした。ソウル行きの循環バスに乗り込みます。全然、日本と違いますね。車内に漂う雰囲気がとってものんびりしています。車掌と乗客が言葉をたくさん交わしています。乗客同士がお喋りを楽しんでいます。携帯電話でお話をしていましても、本人も周囲も特に構えるところがありません。とてもゆったりと居心地がよくて、そのまま眠ってしまい、気がついたら空港に戻ってきてしまいました。私の韓国はこのような体験からはじまりました。
ワークショップ当日です。会場の前に「心理治療法(ハングル)内観」の横断幕が会場前の道路に掲げられていまして、「いやあ、すごいなあ」と思いつつも、関係者だけではない、一般の方の主体的な参加も可能であることをお伝えするスタッフのあたたかい配慮を感じました。会場に入りますと、ハングル語、中国語、日本語、英語と、様々な言語が存在しています。ワークショップ会場でありますソウル・カトリック出版社会議室には、八人が座れる丸型のテーブルが十二ほど用意してありました。参加者は中国からは上海精神衛生中心・王祖承教授とそのスタッフの精神科医を中心に十七名、日本からも各内観研修所所長を中心に十三名、そして、韓国から大学、教会、精神医療関係者、一般の方々も併せて、百名前後の方が参加されていました。私は今回、日本内観学会理事長の巽信夫先生と副理事長の石井光先生、その他の内観研修所の先生方ともはじめてご挨拶を交わしました。また、韓国、中国の先生にも、日本語と不慣れな英語で自己紹介をさせていただきました。
最初に驚いたことがあります。ワークショップの参加費用について、スタッフの方に確認したところ「学生は無料です」と仰っていただきました。韓国では学生は国の宝であり、その学生からどうしてお金をとる必要があるのかという考え方が強いと伺いました。若い人材を育てようとする姿勢があります。残念ながら、今の日本ではあまり考えられないことです。本当にありがたいと思いました。
ワークショップがはじまります。最初に石井光先生から「内観の紹介」がありました。お話の間に約十分間、参加者全員に「小学校低学年のときの母に対する自分」についての内観の体験が行われました。「人生をとめてビデオテープを巻き戻すように」という言葉に促されて、目を瞑り静かな、あたたかい時間が流れていました。
おもしろい「間」もありました。プログラムはきっちり組み込まれているのですが、スタッフの方がそれに縛られることもなく、状況に応じて、場を和ませるようなスピーチを入れてくれました。そのおかげで、日本の会議のような堅苦しいような緊張感もなく、時間が経つにつれて、場になじんでいきます。
続いて、巽信夫先生から「内観療法の有効性」の講演がありました。全人医療及び生涯発達的観点からの内観の考察という貴重なお話です。印象に残ったのは、三カ国の方が参加されていますので、日本語の講演を、ハングル語、中国語に通訳の方が翻訳されます。語った言葉がきちんと伝わっているかどうかを、何度も確認されて、苦心されている巽先生の姿がありました。これが三カ国の、国際的なワークショップの醍醐味です。言語がそれぞれ違いますので、「相手にどのように伝わるか」が尊重されます。そのため、ご自身の言葉に対する自分を常に内観されながら語られているように伺いました。
昼食に入ります。会場に隣接されていますフロアにバイキング形式で韓国料理が振舞われます。たっぷりいただきました。日本では腹八分といいますが、韓国では食欲が進んでしまって腹十二分でした。最後にはお腹が少し苦しかったですが、韓国の料理は不思議ですね。時間が経てば、あれだけお腹がいっぱいだったのにすぐにお腹が空いてしまいます。日本では珍しいお米で作られた甘いジュースもとても美味しかったです。
昼食時のランチョン・セッションでは、榛木美恵子先生から「内観の歴史」について、主に内観法の創始者である吉本伊信先生の生涯を中心にご紹介がありました。吉本先生のユニークな部分、自由な、陽気な吉本先生がスライドを通しながら表現されていまして、私の知らない吉本先生がたくさん存在しています。私にとってもあらたな発見でした。
午後に入りました。予定されていました高口憲章先生が所用のため欠席されました。そのため、藤原神父が代理を務められました。藤原神父はとてもおもしろい方でした。いきなり「皆さん一緒に体操をしましょう。皆さんの上に百万円あります。今度は五百万円です。さあ、手を伸ばしてとってください」ずっと座っていた体の硬さがほぐれていきました。そして「聖書の教えと自分の人生を吟味すること」という言葉が続きました。それにしても、神父が内観をされているのですね。お恥ずかしいことですが、はじめて知りました。内観は日本の仏教から生れたものですが、もはや日本だけではなく、そして、もはや仏教だけではないのですね。本当に幅広い領域で、幅広い人材によって、内観が実践されているのだなとあらためて教えていただきました。
藤原神父が中心となりまして、韓国でも最近、集中内観が実施されたことが紹介されました。体験者は語ります。ご本人の「内観をすれば必ず長生きをして天国に行くことができる」という力強い言葉と、ご本人の奥様の「主人が別人のようになりました」という驚きの言葉が、内観における自己変容を物語っていました。
続きまして、中国の上海精神衛生中心・王祖承教授より、上海での内観療法の歴史と現状の報告がありました。中国の上海では、昨年に国際内観療法学会が開催されました。アルコール依存症の患者の治療として、内観療法が有効であると、同センターを中心として活発な研究と実践が行われていると伺っています。けれども、あらためて驚きました。既に十年以上前、一九九四年に王教授は内観療法に注目されて来日し、内観研修所を視察されています。そこで得られたものを祖国に帰り、治療に導入し、時間をかけてじっくりとその種を育んでこられた熱意と努力に頭が下がる思いでした。王教授は懇親会でも私のような学生の話に熱心に耳を傾けていただき、気さくに「ぜひ上海精神衛生中心を訪れてください」と声をかけていただきました。シェーシェ。その一言しか浮かびませんでした。
真栄城輝明先生が講演の最後を締めくくりました。藤原神父の代理出席に敬意を表して、聖句を引用しつつ、キリスト教と仏教の考えを対比させながら、内観療法のエッセンスについて話されました。その際に、イソップ物語を題材にして、仏教的な「あきらめること」の意義について、おもしろく解説されていました。終盤に先生の体験の一つとして「カレーライスの少年」のお話があったときに、不思議な出来事がありました。ユーモアを交えた話によって笑いが起こり、その余韻で若干騒がしかった会場が突然静まりまして、その少年の体験に対する自分を、参加者一人一人が内観している雰囲気が存在していたのです。「言語の世界を超えたいのちのつながり」というものを強く信じてみたい時間と空間がありました。
最後に質疑応答の時間です。これまで講演された先生方だけでなく、竹中哲子先生と西山知洋先生が回答者に加わりました。前に韓国の参加者の方を中心に活発な質問がありました。「内観療法と他の心理療法との違いと優れていることは何ですか」「韓国の内観が活性化するためにはどうすればいいですか」「韓国でも定期的に内観が受けられますか、参加費はどれくらいかかりますか」様々な質問がありました。特に「韓国、内観の普及のために、少しでも安くしていただけるのでしょうか」という質問があったときに、先生方が深く頷かれている姿が印象的でした。「うん、やっぱり費用のことは大切なことですよね」私も率直にそう思いました。それにしても韓国の方の内観に対する熱意には頭が下がります。あとの懇親会で韓国の関係者の方は仰っていました。「韓国は変わってきました。急速に西洋化してきています。若い人を中心に。問題もたくさん出てきています。今の韓国には内観の導入が急務なのです」と。話は韓国のことなのですが、日本人の私にとっても決して他人事ではないことを、あらためて気づかされました。
これで、朝十時から夕方六時まで、韓国、中国、日本の内観関係者の記念すべき第一回韓国内観療法ワークショップが終了しました。
感じましたことを少しまとめてみます。日本での内観と韓国、中国での内観について、かなりその関心や注目が違うことが体感されます。日本で生れた内観療法なのですが、韓国や中国ではその関心がとても高く、比較して日本はなんとその関心が乏しいのだろうかと残念に思います。そして、韓国、中国、日本の各国では急速に西洋化の流れがやってきていることです。日本に比べると、私にはとてもアットホームな雰囲気に見えます韓国でも、藤原神父の「五年前とは全く違う国のようになってきた」というふうに、確実に変化しています。時代の急速な推移により、伝統的に育まれてきた大切なものがたくさん置き去りにされていきます。時代は止まらないのですね。けれども、そのような今こそ、「人生を一度止めて振り返る」ための内観が求められてきたのかもしれません。
私は二度集中内観を体験し、現在も週一回の通い内観と、毎日の日常内観を続けています。それはどうしてかなといろいろと調べているのですが、吉本伊信先生の「いつでも、どこでも幸せであるために内観をする」という言葉を思い出しました。やはり、私が内観をするのは、「心が豊かでありたい」ということなのかなと思います。自分自身の心が豊かであるために内観を続けることが根っ子にあるのですね。そして、石井光先生の「内観はまず自分が体験してみること」という言葉がありました。今回、日本の内観を指導されている先生方との懇親の機会をいただきまして、一人一人の先生が吉本先生との出会い、内観との出会いを、驚くぐらい克明に、そして、とても目を輝かせながら語られている姿がありました。ご自身の内観に対する体験があって、継続があるからこそ、その喜びがあるのですね。その喜びを吉本先生同様「世界に伝えたい」という新たな喜びが先生達の活力になっているのだなと思いました。
最後になりましたが、縁がありまして、この第一回韓国内観ワークショップに参加できましたことを、心から感謝申し上げたいと思います。国境を越えて学生を、若い人材を育むということで、このような若輩な私にたくさんのものをあたえていただきました。おかげさまで「近くて遠い国・韓国」が「近くて親しい国・韓国」になりました。朴会長と事務局長の李大云博士をはじめとしますスタッフの皆様、参加されました韓国、中国、そして、日本の関係者の皆様、ありがとうございました。韓国での内観の発展と、三ヶ国の内観でむすばれた縁がますます強く、深くなることを心より願っています。
カムサハムニダ。シェーシェ。ありがとうございました。
スペシャル座談会
平成二年四月三十日に創刊された本誌が百号を数えるらしく、記念の座談会が行われた。
場所は不明。その日は八月二日(ダブル・フールデー)であった。つまり、エイプリル・フール(四月一日)を倍にした日なので、実際に行われたかどうかはつまびらかでない。
どういうわけか、座談会の記録が手元にある。その傍らには、本誌の創刊号と「南無阿弥陀仏」(永六輔著)と「カウンセリング方法序説」(菅野泰蔵著)の三冊が重ねて積まれてあった。もとより記録者も不詳。ただ、タイトルと内容が面白そうなので、本号に紹介にしてみた。
「自己発見の会」の発足にあたって
司会 さて、やすら樹が百号に達したのを記念して座談会を行います。出席者のみなさんには交通費も謝礼も出ないというこの座談会に、お忙しい中を遠方から駆けつけて頂きましたことに対して、感謝の言葉もありません。
まず、「自己発見の会」の初代会長・吉本清信先生のお言葉を頂くことにしましょう。
吉本 道行く人にも内観を勧めたい、というのが父、伊信の口癖でした。私たち子どもには「内観の邪魔だけはしてくれるなよ」と、いつも言っていました。内観の普及を目的としたこのような会ができたことを父が一番喜んでいるはずです。生前の父の遺志を思い、この会が軌道に乗るまでの間、会長という役をお引き受け致しましたが、先ほど、なんと一六年も続いて、百号の記念特集号まで出されるとお聞きして感無量です。現会長の長島先生はじめ事務局長の本山先生など関係者の方にはほんとうに感謝致しております。じつは、私は診療所の医者をしておりますが、急患が発生したようなので、急いで診療所に戻らなければならなくなりました。大変残念ですが、失礼させて頂きます。
合掌について
司会 清信先生にはお忙しいところご無理を言って申しわけありませんでした。さて、本日は、多彩なゲストをお招きしており、紙幅の都合もありますので、早速、各論に進みたいと思います。まず、内観の面接で行う「合掌」についてです。「合掌」に抵抗を感じる人が結構いるようですが、抵抗の背後には何があるのでしょうか。本日は、永六輔さんにもお越し頂きました。ご自身の体験を踏まえたお話しを伺えれば有り難いです。永さん、どう思いますか?
永 じつは、僕も浄土真宗のお寺に生まれましたが、若い頃は思わず合掌した手を、まるで、両手をもみほぐしてでもいるようにして誤魔化していました。もみほぐすポーズは、僕の真似をする声帯模写の芸人だけでなく、タモリがよく僕の真似をしているようです。この二、三年ですかねぇ、ふと気がつくと合掌していることが多くなったのは。そうなってみると、どうして、あんなにも合掌することを拒否してきたのかがわからない。お寺の次男として、素直に世間様に合掌してこれなかったのは「思い上がり」だったと、今では思いますね。それと自信がなかった。自己の存在理由、存在価値が希薄だったり、逆に「自信過剰」だったりすると抵抗が起こる。やっと、この年になって、自分のことがわかるようになりました。
司会 つまり、合掌にはその人の心が表れる。しかし、合掌がその人のアイデンテイテイーと関係しているとは思いもよりませんでした。
永 この合掌のポーズは、単に坊主の倅、寺の子だと思われたくなかっただけでない。合掌して感謝する気持ちになっていなかった。生まれた家を恨んだって仕様がないのだけれど、親父が書き残したものを読んで、親父はすごかったんだと思い、その恨みがいつの間にか感謝になっていて、寺に生まれてよかった、寺で育ってよかったと思うようになり、やっと素直に手を合わせるようになっていました。(永さんはその後にラジオの番組が控えているというので出席者一人ひとりに合掌しながら退室された)
相手の立場に立つ
司会 さて、ゲストをもう一人お迎えしております。臨床心理士としてご活躍の菅野泰蔵さんです。内観ではよく「相手の立場に立って自分を見つめよう」というようなことが言われるのですが、菅野先生もカウンセラーに大切な技術の一つとしてそのことを強調されています。
菅野 そうです。徹底して「相手の立場に立つ」ということ、それができなければプロの技を身につけたとは言えないでしょう。私はそれをロールテイキングと呼んでいます。相手の思惑、事情、立場、願望などをうまく取り込む(テイク)ことができるのは、大変な技です。
司会 ロールテイキングについて、わかりやすい例がありましたら・・・。
菅野 ええ、ありますよ。この話は、一般公募で選ばれたエピソード集に、「信ちゃんの嘘」として紹介されたものです。
ある老人混合病院でのこと。高校生の信ちゃんは、新聞配達のアルバイトで新聞を各病室まで届けるのでお年寄りは階下まで降りなくて済むようになった、と大喜び。たちまちみんなの人気者になった。身よりのないセキさんというおばあさんがとくに彼のフアンで、信ちゃん、信ちゃんと孫のように可愛がっていた。そのセキさんがトイレの帰りに病室がわからず廊下をウロウロしたり、ベッド上で少し尿を漏らすようになった。ある日セキさんが彼に訴えました。
「天井から雨が漏ってきて、布団が濡れる」
同室の女性が“雨なんか絶対に漏らない。ここは二階で上に三階がある。セキさんは少しおかしいんだよ”と信ちゃんに耳打ちした。
さて、信ちゃんはどうしたと思いますか?
内観面接者の方ならどう答えますか?
信ちゃんはうんうんとうなずき、セキさんにやさしくこう言いました。
「ほんとだ。天井にしみがある。雨が漏ったあとだよ。修理するように看護婦さんに頼んであげるよ」
この話はあとで人伝てに聞いたのですが、セキさんに語りかける信ちゃんの優しい様子は、高校生とはとても思えなかったそうです。不思議なことに、セキさんの失禁はその日からぴたりと止まったのです。
司会 なるほど分かりやすくていい話です。しかし、プロだからと言って、みんなが信ちゃんのようにできるとは限りませんし、また、プロゆえに別の応答をすることもあるでしょう。
菅野 おっしゃるとおり、プロであるために、たとえば「セキさんのボケの程度はどれくらい進行しているのか?」「増薬が必要なのか?」「こういう防衛の仕方をどのように解除すればよいか?」などと。勿論そのような立場からでもセキさんの失禁を止めることもできますが、信ちゃんの応対を知った以上、私たちは専門家としての自分を見直さなければならないでしょう。
司会 まったく同感です。たとえ信ちゃんの応対が素人のラッキーパンチだったとしても教えられることは少なくないですね。それにしても、菅野先生の謙虚で、誰からでも学ぼうとする姿勢を改めて伺って、感銘を受けました。
永六輔さんのお話にも出てきましたが、結局、人間を相手にする仕事に携わっている者は、いつでも自分自身を見つめる目を持っていなければならないということですね。その目さえ持っていれば、いつか自分のコンプレックスにも気付くし、変化あるいは成長がもたらされる。「内を観る」ので「内観」と名付けた吉本伊信の達見に今更ながら頭が下がります。合掌。
(真栄城 輝明・やすら樹百号より転載)
シリーズ【内観をめぐるはなし】第45回
「合掌」をめぐって
大和内観研修所 真栄城輝明
筆者自身もそうであったが、カウンセリングなど欧米の心理療法を学んだ面接者(セラピスト)のなかには、内観面接時の「合掌」という所作に抵抗を覚える人が少なくないだろう。
実際、日本内観学会主催の第1回内観療法ワークショップが平成元年に愛知県一宮市で開催されたとき、準備委員会は、内観実習の場面では、「合掌をしない」ことを申し合わせている。理由は、内観から宗教色を廃しなければ、臨床や教育の場では抵抗が強く、受け容れられないだろう、ということからであった。
従って、内観研修所で行う内観の場合はともかくとして、少なくとも、学会主催の内観実習では、「合掌をしない」ことにしよう、といった取り決めがなされた。
たかが「合掌」、されど「合掌」なのだ。
そもそも合掌とは何なのか?そして、合掌にはどういう意味があるというのであろうか?
哲学者で宗教問題の啓蒙家として活躍するひろさちや氏は、その著「仏教と神道」(新潮選書)のなかで、合掌が仏教と共にインドから伝わってきたことに触れてあと、こう述べている。
「インド人は、現在でも、日常生活において合掌します。合掌をして、『ナマス・テー』と言います。『わたしはあなたを尊敬します』といった意味です。『おはよう』も『こんにちは』も、『さようなら』も、すべて『ナマス・テー』です。日常生活のなかで合掌する習慣は、なかなかいいものです。できれば、日本人も、この合掌の習慣を日常生活のなかに定着させたいものです」と(79頁)。しかし、そうはいっても、この国の心理療法の世界では、今なお宗教へのアレルギーは相当なものがあって、先の取り決めを改めることはむつかしいようだ。
けれども、内観研修所において面接をしてみるとわかることであるが、合掌なしの内観面接はちょっと考えられない。なぜならば、合掌のない面接は「だしを抜いたみそ汁」をいただくようなもので、それなしでは面接の妙味が半減するからである。ところが、これまで「なぜ、合掌するのですか?」という質問を受けるたびにその返答に窮する始末であった。
そこで、吉本伊信の遺したテープや資料はもとより、ときには内観研修所を主宰している方々との対話を通して学んだことを筆者なりの表現で答えるようにしてみた。
「人間はどんな人にでも仏性(いのち)が宿っている。仏性というのが宗教的で抵抗があれば、良心あるいは、超自我と言い換えてもよい。たとえ極悪非道な罪を犯した人にでも良心(仏性)というものがある。面接のときの合掌は、内観者に対してだけではなく、否、むしろそれ以上に内観者の背後に潜んでいるとされる仏性に対する畏敬の念なのだ。面接者として内観者の仏性を感得したいとの意思表明だと言ってもよい。そのとき、面接者は心の中で、“私にはこの内観者の悩みを解決したり、病を治したり、救うことは不可能だ。なぜならば、私は無力だから。面接者としての私に出来ることは、せいぜい内観者の中に潜在している仏性が顕現してくれるよう祈るだけだ“と自らに言い聞かせつつ手を合わせる」という説明がそれである。
そして、「合掌」には内観の人間観が象徴的に示されていると思う。ひろさちや氏ではないが、合掌もなかなかいいものである。合掌が日常化しているインドとは違って、この国では日常化していないが故(ゆえ)に、非日常の世界を醸(かも)し出すことにもなろう。そうやって考えると、「合掌」は内観面接に欠かせない所作だとは言えまいか。
〈本文は、拙著「心理療法としての内観」(朱鷺書房)から抜粋し、修正を加えた。〉
シリーズ【内観をめぐるはなし】第34回
「霊性」をめぐって
大和内観研修所 真栄城 輝明
およそ70年代も後半になって、「スピリチュアリティ」という言葉が「魂」とか「霊性」に翻訳されて、この国の書店の一角に登場するようになって久しいが、最近、内観学会でも講演の中にそれが登場するようになった。
今、時代は霊性の世紀なのであろうか。
否、それは今に始まったことではなかろう。
むしろ、前科学時代の方がはるかに「霊性」の活躍の場があったように思われる。
以前に、青森県で発掘された縄文時代の三内丸山遺跡を訪ねて驚いたことがある。当時の人々の暮らしが紹介された文献や資料によれば、すでに現代人が失ってしまった「霊性」がごく自然に生活の中で生きていた。
たとえば、こんな光景が日常に見られた。
「そうか、太陽が南の空に差し掛かるとき、弥七さんは四つ辻の樫の木の前を通るのかぁ」
今朝、目覚めた時、助六には弥七のその日の動向が見えた。用件は、昨夜の寄り合いで決まった隣村との合同祭を伝えるためである。
何しろ、縄文村には、電話はおろか郵便や飛脚は存在せず、直接逢って話すしかない。
それで、助六はその日、朝食後(縄文では食事は1日に2食)太陽が南天に差し掛かる前に行って、大きな樫の木陰で弥七を待った。
しばらくすると、紛れもなく、弥七が向こうからやってくるではないか。
「どうしたさぁ、助六さん」と、木陰の助六を見つけて弥七は驚いた様子で声をかけた。
「やぁ、貴男に逢いたくてねぇ、昨夜寝る前にそう念じていたら、今朝、目覚めと同時に弥七さんがここを通るのが見えたんさぁ」と助六はごく当たり前に言葉を返したのである。
このような遠感力は、縄文人なら誰でも持っていた能力であり、現代人には、もはや聴くことができなくなってしまった音や声を聴きわけ、見えるはずがないものまで見ることができた。
おそらく、現代人は科学技術の発達に浮かれている間に、人間にとって大事なものを失ってしまったのではないだろうか。
三内丸山遺跡の縄文村を訪ねてそう思った。そして、その大事なものとは、言うまでもなく「スピリチュアリティ」のことである。
それは、どうやら人為や言葉を越えたものらしいのであるが、現代にも縄文人のような能力を備えた人がいてうれしくなった。
その人の名は久路流平(くじりゅうへい)。職業は旅人。それも貧乏旅行の達人。今までに行った国は40弱。
時には野宿をしながら、日本人があまり行ったことのない国を選んで旅に出るという変わり者なのである。しかも驚いたことに外国語はからきし駄目で話せないのだという。
その旅の達人が言うには、外国を旅していて一番騙されやすい人種は、外国語を流暢に駆使する日本人旅行者なのだそうだ。
「どうしてかって言うとね、相手が嘘をついているときでも、言葉を信じると騙されるけど、ぼくは外国語が話せないし、言葉ではなく相手の目をジーッと見ている。目を見ていると分かるのです。だから、言葉はしゃべれんほうがいいと思っている」と、そう言うのである。
「はじめに言葉ありき」と聖書も教えているというのに、しかも世は国際化が叫ばれ、情報化時代である。言葉なしでは生きてゆけないと思っている人が多いはずなのに、旅人はなぜそう言うのであろうか、私には不思議であった。
けれども、縄文村を訪ねて得心がいった。おそらく、久路流平もまた縄文人のように「霊性」を備えた人に思えたからである。
ところで、内観面接者として「霊性」を磨くには、一体どうすればよいのだろうか。
シリーズ【内観をめぐるはなし】第41回
「精神分析」と「内観」の断片
大和内観研修所 真栄城輝明
学生時代に、心理療法には百種以上もあるらしいと聞いて驚いたが、その心理療法が今では、四百種を越える時代になったという。
ところで、あまたある心理療法の中でもオーストリアに生まれ、欧米で発展を見せた「精神分析」は、創始者・フロイド(1856~1939)の名とともによく知られており、構築されてきた理論も少なくない。
それに比べると、吉本伊信(1916~1988)の「内観」は、心理療法としてみるときに、およそ半世紀の遅れだけでなく、知名度と理論化において「精神分析」には及ばない。
その知名度と理論に惹かれて、セミナーには他学派の専門家も顔を出しているようである。
つい最近のことであるが、京都で開催された精神分析のセミナーに参加した。アメリカまで行って、スーパーヴィジョンを受けている日本人分析家がいるだけでなく、著書によっても高名ぶりが伺われる博士が来日したからである。私にすれば珍しく、30分前に会場へ到着。
会場を見渡すと、すでに数名の方が席を確保していたが、一番前のしかも真ん中の席が空いていたのでそこに座を定めた。我ながら学ぶ意欲が満ちていたのであろうか。しばらくして、私の隣席には博士夫人が案内されて座った。
セミナーでは、昼食を挟んで講義と症例検討が行われたが、そこで文化の差を目撃することになった。日本では、妻を会場の一番前の席に座らせることさえ憚られるというのに、博士は話している間、視線の大半を聴衆ではなく夫人に送っただけでなく、傍らの通訳が自分に話している内容をマイクに通して自らの英語で会場の夫人に伝える時間まで取ったのである。
よもや、アメリカ帰りであったとしても、日本の精神分析家の中に、その博士の振る舞いまで取り入れるひとはないだろう。彼の国では、紳士の振る舞いかも知れないが、この国には馴染まない行為だ。文化の差は大きいと痛感。
たとえば、この文化差は心理療法の目標にも及んでいるように思われる。「精神分析」の治療目標として使われる言葉に「自己実現」がある。それに対して、安藤治によれば、仏教の考え方からすると「自己」は実現されるものではなく、乗り越えられるもの、いわば「超越」されるものだという(仏教としての心理療法・法蔵館)。
もとより、仏教文化で生まれた「内観」においても同じように言えよう。「内観」の目的は、自分自身を知ること、すなわち「自己」もまた「無我」であることを知ることになる。
というようなことを考えているうちに午前中のセッションが終わり、昼食の時間になった。
「精神分析では、時間の厳守を強く言います。みなさんも時間だけは厳守してください。1時半には、午後の部を再開しますので遅刻しないようにお願い致します。」
博士の言葉は通訳を介すまでもなく、参加者によく伝わった。遅れてはまずいと思ったのか、近くのうどん屋に駆け込むひとも多かった。
食後の会場は、30分前なのにもう席に戻って、午後の資料に目を通しているひとがいる。
博士の言葉が効いていた。ところが、時間になっても当の博士の姿がない。10分が経過した頃、会場係の携帯が鳴った。「料理の一部がまだ出てないので30分ほど遅れるそうです」。
会場係が申し訳なさそうにそう言った。
そして、待たされること45分。日本人の関係者は、小走りで身体を丸めて戻ってきたが、博士は臆することなく最後尾で入室して曰く、
「私には責任はありません。料理の遅い店を選んだ事務局の責任です」と。見事な自己主張に「内観」とは違う文化を感じて絶句。
シリーズ【内観をめぐるはなし】第55回
占い師の夢話
大和内観研修所 真栄城 輝明
内観者の夢に興味をそそられて、今から1300年前に栄えたという平城京を訪ねた。
内観者の夢話は後で紹介することにして、まずは平城京に関する豆知識から始めよう。
「710年に元明天皇は、都を藤原京から平城京に移しました」と切り出した白髪のボランテイア・ガイドは、社会科の元教師をしていたというだけあって、やたら数字に詳しかった。
「平城京は人口が10万人。当時は『平城』と書いて『なら』と呼んでいました。南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に別れ、さらに左京の傾斜地に外京がありました。東西軸には一条から九条大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが作られ、中国の長安(現在の西安)を真似た都市計画でした。各大通りの間隔は532㍍ほどもあり、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を東西・南北に三つの道で区切って町としたのです」
ガイドの説明に耳をすませば、まるで奈良時代にタイムスリップしたかのようだ。
「平城京の正門である羅城門をくぐると朱雀大路が北に向かって延び、その4km先に朱雀門(平城宮の正門)が建っていたのです」
臨場感あふれるガイドの話しに引き込まれて、私の好奇心がうずいた。そこで、「羅城門跡は、現在の場所で言えばどのあたりになるのでしょうか?」と訊いてみた。すると、すぐに手元の地図を開いて、指で案内してくれた。
「この北端にある朱雀門から南の方へ行ったところですから、えっと、ここ、大和郡山市野垣内町来生(らいせ)ですね」
早速、地図を片手に現地を訪ねた。「来生」という地名が好奇心を煽ったからである。行ってみると、羅城門跡は当研修所から目と鼻の先にあって、今は田んぼの中にあった。
さて、その内観者の話である。一見すると普通の女性なのであるが、内観面接で「占い」を仕事にしていることがわかった。全国各地から相談者が訪れるほどに流行っているようだが、いろんな人の悩みの相談に応じているうちに、精気を使い果たしたのか、自分自身が体調不良に陥ってしまった。人づてに内観のことを聞いて、電車を乗り継ぐこと数時間、大和郡山までやってきたというのである。
「じつは、どこの研修所にしようか占ったところ、大和郡山が出てきました」
占い師が自分のことで占いを立てようとは想像もしていなかったので驚きであった。
駅に着いた頃から予感したようであるが、研修所の建物が目に入った途端、涙があふれてとまらない。普段、滅多に涙を見せたことのない彼女が「この地には不思議な波動を感じる」と内観初日から歓喜にむせび泣いたのである。
そして、翌朝の面接で昨夜の夢を語った。
「昨夜は衣擦れの音に目を覚まし、見ると高貴な姿の女性がお供を連れて北の方向に向かって歩いて行きました。北には高貴な方のお住まいがあるようでした」と。当地に不案内の私が首をかしげていると「きっとあるはずです。昔はそこを行き来されていたと思います。調べてみてくれませんか?」と宣うので、言われるままに車を走らせた。着いたところは何と平城宮。驚天動地だ。地図によれば、朱雀大路の近くを走ったことになるが、文献によれば、平城京は郡山の手前の九条大路が終点のはずだ。ところが、2年後の今年になって十条大路が発見された。百年間、変更のなかった平城京の地図が書き換えられることになった。すると、占い師の夢話が現実味を帯びてきたのだろうか。
シリーズ【内観をめぐるはなし】第54回
卒業式のはなし
大和内観研修所 真栄城 輝明
今は3月、本誌の5月号の原稿を書いている。3月は別れの季節らしく、そこかしこの学校で卒業式が行なわれている。ところで、ことの経緯については省略するが、ある高等学校の卒業式に来賓として招かれたので出席した。午前中は全日制の、夜は定時制の卒業式があった。ただそこに座っているだけの来賓なのだが、退屈するどころか感動の連続であった。たとえば、保護者の謝辞もそのひとつだ。全日制では、父親が保護者を代表してこう述べた。
「本日は、本校を巣立つ363名の子どもたちのために、かくも盛大に心の籠った卒業式を挙行いただき、ありがとうございました。ここに保護者を代表して、入学以来今日までの3年、或は4年間に、諸先生方から受けた幾多のご恩に対して感謝の辞を述べさせていただきます。
その前に、卒業生する子どもたちにひとこと言っておきたいことがあります。
時代は、情報化時代と呼ばれ、『IT長者』を生み、『この世に、お金で買えないものはない』と豪語するものが現れる時代です。若いきみたちの中には、それを羨み、憧れさえ抱く者がいるようですが、果たして、金さえあれば、望むものは何でも手に入るでしょうか?
確かに、お金は大事です。しかし、それ以上でもそれ以下でもありません。みんなもよく知っている万葉の歌人はこう詠いました。
『銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何にせむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも』(山上億良)
今も昔も親の心はちっとも変わりません。
親の願いは唯一つ、わが子に幸せになってほしい、ということだけです。
では、一体、幸せとは何でしょうか?
幸せという字をよく見てください。『辛い』という字の頭に横線が入って『幸せ』になります。つまり、辛いことを耐えてこそ、幸せがやってくることを意味しています。表現を変えれば、幸せになるには挫折を乗り越える必要があるのです。ある大手企業の人事部長いわく、『東大卒の中でも、体育会系の部活に所属した人のほうが、辛抱強いし、仕事が出来る』。東大の運動部は勝つことは稀であり、負け試合のほうが多いからだ、というのです。彼らは一勝のため相当な努力をするからです。人生は勝つよりも負けて得ることのほうが多いのです。みなさん、挫折を恐れていては成長など望めないし、チャレンジ精神だけは忘れないでください。入学時、360名だった仲間が3名増えました。きっとそれぞれにご事情があったのでしょう。その3名(越年生?)こそ、もっとも幸せの近くにいる人だ、と言って良いかもしれません。
さて、本題の謝辞ですが、(中略)親にとって『銀(しろがね)や金(くがね)や玉(たま)』をもってしても代え難い子どもたちを、ここまでに導いて、成長させてくれた諸先生方には、どんなに感謝しても足りないほどです。心より感謝申し上げます」。
定時制の母親の謝辞はもっと素朴であった。形式や儀礼にとらわれることなく、直截な表現で卒業するわが子に語りかけたのである。
「泰蔵(仮名)クン、おめでとう!小学校も中学校も完全不登校だったあなたが高校を卒業するなんて夢のようです。あなたも19歳。丁度、私があなたを生んだ年になったのですね。お父さんとは離婚になってしまいましたが、あなたを一人前にすることを目標に頑張ってきました。が、私一人では無理でした。周囲に助けてもらったお蔭です。担任の酒井先生、保健室の中村先生には特別に大変お世話になりました。お友達や先輩、みんなのお蔭で今日の卒業式を迎えることが出来たのよね。ここまで成長してくれてありがとう。今日は本当に嬉しい!」。
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