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国際内観療法学会・シンポジウム

The 3rd International Congress of NAIKAN Therapy
Symposium
[Theme] The Status of Naikan Therapy around the World: Difference and Universality


Cultural Differences between Japan, China and South Korea and the Status of Naikan Therapy in the Respective Countries
Presenting a brief consideration to the “Three Questions”

Teruaki Maeshiro
Yamato Naikan Institute



I. Introduction

It has long been known that the Naikan method, originating in Japan, was developed out of mishirabe, which has been inherited in a group of the Jodo Shinshu sect of Buddhism. It is also widely known that Buddhism was introduced from India to China, South Korea and finally to Japan; this suggests that these three countries, i.e., China, South Korea and Japan, have historically shared Buddhism as a common culture.

Interestingly, however, one of the focuses of this Symposium will be differences between these countries in interpreting the Three Questions asked in the Naikan method. In fact, there are obviously various cultural differences between these countries, even while sharing Buddhism as a common ground. As a symposiast, I will briefly discuss the subject assigned to me, with such cultural differences in mind.


II. Difference between Mishirabe and Naikan

Asked how Naikan was distinguished from mishirabe, Ishin Yoshimoto, the founder of the Naikan method, replied “I shifted the emphasis of Naikan from ‘having a sense of uncertainty’ to ‘having a sense of guilt’” (Yoshimoto, Ishin, Introduction to Naikan, 1983, p. 56). He also explained the reason for the shift: “Awareness as a real sinner entails a deep, deep self-reflection. When a sinner becomes aware of being a sinner, the eye of the truth opens. To feel a real sense of uncertainty, we should start from a training for becoming truly aware of sins. Therefore, I shifted emphasis from the conventional one” (Yoshimoto, Ishin, Introduction to Naikan, 1983, p. 57). As a specific approach to this purpose, the Three Questions, which had not been practiced in mishirabe, were established in the Naikan method. Thus, it can be said that these Three Questions are the critical difference between mishirabe and Naikan.


III. Specific Episodes that Reminded Me of Cultural Differences

1. One Chinese student studying in Japan experienced a Naikan training in Japan. After this training, he was pleased that his relations with Japanese people improved. However, when returning to China for a short holiday stay, he found his relations with Chinese people worsened, and he felt sad about this. Learning this story from him, I wondered if this was attributable to cultural differences between the two countries.

2. One day a Korean Naikan participant visited me. He requested an interpreter because he did not understand Japanese. When I proposed, for an interpreter, a Korean student studying in Japan, who was younger than him, he declined to accept it. In the end, he was satisfied with another candidate who was older than him. It seemed that the culture of respecting seniority was still highly influential in South Korea. According to him, even smoking is not allowed in the presence of elders. It was therefore not acceptable for him to have a younger interpreter on the occasion of Naikan practice, in which he expressed the inside of his mind. Are there any customs in the countries such that elders cannot confess his/her shames in the presence of younger people?

IV. Purpose of Naikan

According to Ishin Yoshimoto, “the purpose of Naikan is removing a sense of self-centeredness and eliminating the ‘self’ that adheres to the ‘I’” (Yoshimoto, Ishin, Forty Years of Naikan, 4th Edition, 1972). Takao Murase, a specialist in Western psychology, argues that the purpose of Naikan is ensuring “Where id was, there ‘genuine conscience’ shall be,” borrowing Freud’s words (Murase, Takao, Naikan: Theory and Cultural Relationship, 1996). How would Chinese and Korean specialists respond to these ideas? I am looking forward to hearing their views in the Symposium.
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教育と内観

    教師が内観をする意義

        三木善彦

      (帝塚山大学教授・大阪大学名誉教授)
 
 私たちが内観をするきっかけはさまざまですが、病気や仕事や人生に行き詰まって、それからの脱出を願ってであることが結構、多いようです。つまり、その大小はさまざまですが、人生の危機に直面して、内観にその解決の道を求める人々が多くいます。
 今回のシンポジストになった竹中哲子先生もそのお一人です。先生は体育の教師として活躍していたときにガンになり、手術後、身体に自信を失い教師としてやっていけるかという岐路に立ちました。そして縁あって北陸内観研修所で内観なさいました。そして先生はやがて内観研修所を開設し、その活動が世の中に知られるようになると、教育関係から声がかかり、講師として内観を広めておられます。
 二人目のシンポジストになった西山知洋先生は教師として3つの壁に直面し、心身共に疲れ果て、その苦悩からの脱却を求めて、吉本先生の内観研修所で内観なさいました。先生はやがて念願のフリースクールを開設しそのなかで内観を実践するようになりました。
 三人目のシンポジスト・酒井ゆり子先生は教師としての自分のあり方に限界を感じ、その打開を求めて大和内観研修所で内観をなさったように思います。そして内観を自己理解や生徒理解の手がかりとして、教師として成長なさいました。
 このように内観を契機に三人三様に成長し、教師としての可能性を広げていかれたように思います。
 私はあるとき多くの学生たちに印象に残る教師についてエピソードを交えて書いてもらい、そこから魅力的な教師の条件として、①教科に関する豊富な知識、②すぐれた教育技術、③生徒とのよい人間関係、④教育に対する情熱、という4つの条件を抽出したことがあります。
 教師が内観をすると、自己理解や生徒理解が深まり、生徒とのよい人間関係が構築され、改めて教育への情熱がかきたてられ、知識や技術も豊かになるのではないかと思います。
 ですから、多くの教師が機会を得て内観してくださると、日本の教育事情はもっと改善し、生徒たちの学習意欲の向上や人間性の深まりにも寄与するのではと思います。

第3回国際内観療法学会・シンポジウム抄録

第3回国際内観療法学会 ・シンポジウム
テーマ「各国の内観療法の実際 -相違点と普遍性-」


日中韓の文化差と内観療法の実際
―3項目についての小考察を試みつつー


大和内観研修所 真栄城 輝明

Ⅰ、はじめに
 わが国で生まれた内観が仏教(浄土真宗)の一派に伝わる“身調べ”から発展してきたことは、つとに知られたことである。そして、仏教といえば、インドから中国や韓国を経て日本へ入ってきたことは周知のことである。つまり、三国は歴史的にも仏教という共通の文化を有してきたことになる。
ところが、今回のシンポジウムでは、これら三国における内観3項目のとらえ方の相違をテーマにしたいと聞いている。つまり、仏教という共通項はあるにしても、三国の間には当然のことながら文化の差がみられよう。そこで、演者としては与えられたテーマについて、それぞれの文化の差を念頭に置きつつ、若干の考察を述べて、シンポジストしての責を果たしたいと思う。

Ⅱ、身調べと内観の違い
 内観の創始者である吉本伊信は、内観は身調べとどう違うのか、という問いに「私は、内観のポイントを、無常感をもつことよりも罪悪感をもつことにずらしました」(吉本伊信、内観への招待、1983、56頁)と述べている。そして、「本当の罪人と自覚するには、深い深い反省が必要です。罪人が罪人だったと悟った時、真理の目が開けるのです。本当の無常感を感じるためには、本当に罪悪を感じられるようにすることから訓練すべきだと思って、従来からの重点の置き方を変えたのであります」(同上、57頁)とその理由まで述べている。その具体的な方法として身調べにはなかった「3項目」が内観において設定されることになったようなのである。つまり、3項目こそ身調べと内観法の決定的な違いだと言ってよいだろう。

Ⅲ、文化の差を感じさせられたエピソード
1, ある中国人留学生が日本に滞在中に内観を体験したことがある。内観後には、日本人との関係がうまくいくようになったと喜んでいたが、休暇を利用して短期間の里帰りをした際に、中国人との関係がうまくいかなくなったと嘆いて見せたのである。そのエピソードを当の本人から聞いたとき、演者はひょっとしたら両国の文化差によるものではないかと考えた。
2, 韓国から内観者を迎えたときのことである。内観者は日本語が話せないので通訳を用意して欲しいと言われて、内観者よりも若い留学中の学生を候補に挙げたら難色を示してきた。結局、内観者よりも遙かに年上の通訳が見つかって納得してくれたことがある。韓国では今でも年功序列という文化が強く残っているように思われた。聞くところによれば、年下の人は年上の人の前では煙草も吸ってはならないらしい。内観という自分の内面を語るとき、通訳者には年下では困るということであった。年長者は年下の人の前では、恥をさらせないという慣習でもあるのだろうか。

Ⅳ、内観の目的
 吉本伊信は「内観の目的は“我執”の念をなくし、“おれが、おれが”という“我”を削除するためです」(吉本伊信、内観四十年、第4版1972)という。欧米の心理学に精通している村瀬孝雄はフロイトを援用して「エスあるところに真正な良心をあらしめること」(村瀬孝雄、内観 理論と文化関連性、1996)が内観の目的だと述べている。さて、中国と韓国の専門家は何と言うだろうか、興味深いので、当日のシンポジウムで拝聴したいと思う。  

【本文は、第28回日本内観学会大会のシンポジウムにおいて発言したものです。内観研究12巻(p27-34)の特集より抜粋して転載しました】


―特集―
学校・家庭・職場における内観の適用心理・教育臨床の立場から


真栄城 輝明

 

 東洋的心理は何事も内に向けようとする。東洋人は大体にイントロヴォルト(内向的人間)だ。西洋人はエキストロヴォルト(外向的人間)だ。それで彼らの好奇心・研究心は外へ外へと向かってゆく。ひろがってゆく。内側の方は、お構いなしというくらい閑却している。
外は広い、内は深い。             -鈴木大拙―(5)



Ⅰ. はじめに
これまで医学モデルとしての内観に主眼が置かれ、それをテーマにしてきたのは、本学会の一つの傾向であり、大きな流れであった。
ところが、第28回大会の準備委員会は、これまでとちがって「各分野における内観の適用」を大会テーマとして掲げてきた。内観が医学モデルを超えて大きな広がりを見せ始めたようなのだ。時代の流れに沿って内観にも変化が訪れたと言ってもよいだろう。今回のシンポジュウムは、学校・家庭・職場において内観がどのように適用されているのか、あるいは今後、どのように適用されうるか、といった内容であったように思うが、この時代にふさわしいテーマであった。
そこで、本誌は特集を組んで当日の内容を掲載することになった。特集を組むに当たっての詳細な経緯については、シンポジュウムの座長を務めた巽信夫が述べることになっているので、そのあたりの事情は、氏の筆に任せることにして、小論は、当日のシンポジュウムで発言したものに若干の加筆と修正を加えてまとめ直したものである。
さて、本論に入る前に、まず、当日のシンポジストに指名された筆者の立場から述べることにする。

Ⅱ. シンポジュウムにおける筆者の立場
シンポジュウムに先立って大会準備委員長から次のような依頼文が届いた。
「学校・家庭・職場における内観の適用についてそれぞれのお立場から発表をしていただきます。真栄城さんには、家庭のごく普通の問題(親子、夫婦、嫁姑など)について、あるいは、家庭に限らず内観の適用についてオールラウンドにお話いただいてもいいかなと考えています」(原文)という内容であった。
シンポジュウムのタイトルには、学校・家庭・職場という3つの立場からの発言が指定されていた。そこで、筆者には家庭の問題について、しかもオールラウンドな視点から発言することが求められた。そのためには、筆者の立場を示す必要があった。サブタイトルにしてそれを示しておいたが、以下には、表題のサブタイトルについての解説からはじめよう。

【心理・教育臨床の立場】
筆者は臨床心理士である。一口に臨床心理士と言ってもその活動分野は、相当多岐にわたっている。筆者の心理臨床は、病院臨床が主な舞台であった。そこでは、統合失調症はもとより、入院中のさまざまな精神疾患を対象に心理療法を試みてきたが、アルコール依存症の治療スタッフに参加したことによって内観と出合うことになった。
そして、初めの数年はアルコール依存症者本人への分散日常内観を実施していた。
その後、個別内観療法という形態で集中内観を実施するようになったところ、家族が内観を希望するようになった。さらには、神経症、心身症と対象が広がって、不登校など子供の問題にまで内観の適用が広がっていった。そうこうしているうちに、時代は学校の場にスクールカウンセラーが派遣されるようになった。病院に勤める傍らで学校へ行ってみると、いつの間にか道徳の授業を担当することになって、子供を対象に学級内観を試みたところ、教師や保護者の中に関心を示す人が現れた。おそらく、それが教育委員会及びその関係者の耳に入ったのであろう、A県の教育センターは、教師対象の夏期講座を毎年開催しているが、その上級コースに内観を指定してくるようになった。そこでは、主催者と受講者の希望で講義だけでなく実習までも組まれようになった。
という次第で、筆者としては病院臨床だけでなく、教育臨床においても内観の効果に一定の手ごたえを感じていた。当日のシンポジュウムでは、「心理・教育臨床」を通して経験してきたことを中心に述べた。
ところで、話は変わるが、冒頭に引用した鈴木大拙(1870~1966)の言葉は、「東洋的な見方」(岩波文庫)の58頁に見つけたものである。同じ頁の中で鈴木は「外向的研究心の功績は、医学の面に最も顕著に見られる。近代人の平均寿命が一般に上昇してきたのは、何といっても、医術の力である」と西洋の科学文明が生んだ医学を評価しつつ、東洋的なものへの評価も忘れていない。というのは、61頁にきて鈴木はこう述べる。
「東洋は母性愛を理想とし、西洋は父性愛が好いという風になっている。-中略―が、ある点から見ると、母性に対する敬愛の心情は、東洋のほうがずっと優れている」と主張するのである。その主張に耳を傾けるならば、東洋の文化から生まれた内観が「母親に対する自分」をみつめることを重視したことは、よく頷けよう。
前節の「はじめに」でも述べたことであるが、内観は今や医学の舞台だけでなく、学校・家庭・職場にまで持ち込まれ、その適用の範囲を広げている。その際に、それぞれの分野で「内観を適用する」ということは一体どのようにして可能なのか、具体例を示しつつ、内観のエッセンスについても触れてみたい。

Ⅲ. 内観の適用をめぐって
 当日のシンポジュウムにおいて、石井光(1))は「学校における内観」、竹元隆洋(6))は「家族の病理と問題行動」、芹沢幸彦(4))は「内観療法の職場における活用」と題して各分野における内観の適用が紹介された。詳細は、大会論文集と本誌に掲載された各氏の論文に譲ることになるが、以下にはそれを踏まえて筆者の経験してきたことを述べることにする。
1.学校への適用
 「2004年度、集中内観をした青山学院大学の学生は、約30名であった」と石井は報告しているが、おそらく、夏季休暇などの学校行事のないときを選んで、しかも学校以外の場所(たとえば、内観研修所など)で各自の自由意志で内観に参加したのではないかと思われる。公立の小中高の生徒に学校の中で内観してもらうことは難しいだろう。
確かに、かつて学校の中に内観室を作って集中内観を実施する高校教師がいたことはある。1981年10月27日のNHKテレビが放映した「無処罰の学校をめざして」という番組に取り上げられた池上吉彦がその人である。ほぼ原法通りに内観を学校の中に取り入れたことは、画期的な出来事であった。けれども、それは誰にでも出来ることではなかった。1週間もの間、他の行事を中止して生徒に内観してもらうことは、容易なことではないからである。学校の行事を中断させることなく、内観を取り入れようとすれば、石井のように集団教室内観や記録内観(宿題形式も含む)というような変法にするしかないように思われる。筆者もまたスクールカウンセラー(以下、SCと称する)として勤務していた中学校で「内観的授業」を試みたことがある。
【内観的授業の試み】
 平成7年から始まったSC派遣事業に、筆者は平成8年から参加し、2校目の中学校に派遣されとき、道徳の授業を担当することになった。
 最初の中学校では、不登校や非行など、いわゆる問題をもった生徒に対する関わりが中心であった。ところが、2校目の中学校では、問題を持った生徒はもとよりであるが、そうでない普通の生徒との関わりも発生するようになった。ことの経緯を述べるならば、次のようである。
<ことの経緯>
 筆者がPTAの役員をしていたときのことである。新興住宅地ということもあって、横のつながりが希薄であった。そこで、父親たちの有志が集って「オヤジの会」を立ち上げた。その会ではいつの頃からか、ゲストを招いて懇談するようになった。その日のゲストにはこの地区の教育長が招ねかれていた。私的な会合なので、会員もゲストも言いたい放題、自由に意見を交わす雰囲気が出来ていた。その席で、ゲストの教育長がSCとしての筆者に向かって口調こそ穏やかではあったが、こう言ってきたのである。
「あなたがSCとして不登校やいじめなど、問題を抱えている子どもたちを援助していることは私の耳にも入っており、良くやってくれていると思う。だけど、学校にはその他大勢の、いわゆる普通の子どもたちもいるし、数で言えば、そっちの方が多いんだよ。教師は問題児だけでなく、普通の子達のことも考えてやっているが、あなたはSCとして、その他大勢の子どもたちに対して何をしてきましたか?あるいは、何か出来ることはありますか?」と。
SCとしての弱点をつかれて筆者には返す言葉がなかった。衝撃は深刻であった。
 「その他大勢の普通の子にSCとして何が出来るか?」
 そのとき以来、筆者にとって大きな課題となった。その課題を背負ったまま、出勤日に担当校のI中学校に出掛けていった。すると、その日、校内では模擬授業が行なわれていた。翌週に市教委の視察が予定されていたためにそれに備えて、教師全員で模擬授業を参観してあとに、カンファレンスが行なわれることになっていた。筆者にも声がかかったので参加することにした。対象となった授業は道徳であった。筆者はSCの立場から思いつくままに意見を述べた。そのとき述べた意見が教務主任に印象が深かったらしく、SCを道徳の授業にT.Tとして活用できないか、という案を出してくれた。筆者がその案を快く引き受けたのは、例の教育長に与えられた課題を背負っていたからである。ところが、筆者には教員資格がない。そこで教務主任は教頭と一緒に知恵を絞ったらしく、T.Tという形態をとって、道徳の授業を担当することになった。
授業の方法については後述することにして、結論を先取りして言えば、内観を取り入れることにしたのである。そして、その授業を担任が「自分探しの旅」と命名してくれた。このようにして、内観的授業は始まったわけであるが、目的にしたことを箇条的に示せば、3つである。
①学校の特徴と言えばそうなのであるが、生徒は個人単位でよりも学級単位で行動することが多い。そこで、SCとしては、生徒個人を理解する上でも先ずは「学級」を理解する必要があった。
②授業においては、集団心理療法の手法を用いて、集団内観を念頭に置きつつ、学級全体の精神衛生に寄与することをもねらいとした。
③レポートとして提出された、いわゆる内観的記録を担任教師と共有することによって、担任の生徒理解の一助になるよう努めた。
 以上の3点を念頭に置きつつ、具体的に授業に臨んだが、SCによる授業とはどういうものになるのであろうか、正直言って、当のSC自身でさえ、当初は、見当がつかなかった。考えてばかりいても始まらないので、1年生のあるクラスを対象に、はじめと2回目は、担任の授業を見学させてもらいつつ、オブザーバーとして参加した。
 3回目と4回目になって、担任が見守る中、SCが道徳の授業を担当した。4回目には「自分探しの旅」というタイトルが担任によって命名されているが、SCも生徒もそれが大いに気に入ったので、5回目以降、全学年の全学級に拡大することになった時にも、そのテーマで続けることにした。
 授業の具体的な内容について言えば、各学年はもとより,各クラスによって話す内容は、まったく同じと言うわけには行かないが、課題は統一し、同じにした。
 その課題とは、こうである。
 「お父さんでもいいけど、お母さんに手紙を書いてみよう。何か、都合があって、お母さんに対して書き辛い人は、お祖母さんとか、お祖父さん、あるいは親戚の人とか友人でもいいです。手紙を書くに当たっては、次の三つ観点から書いてください。たとえば、お母さんに対して①してもらったこと、②して返したこと、③迷惑をかけたことを思い出し、小学校の一年生から順になるべく具体的に調べて書いてください」と。
 思春期のおもしろさは、与えられた課題を逸脱したり、必ずしも故意や悪意でなく、課題の手順を変えたりすることである。
 「お母さんの立場に立って調べてみてください」という当方の教示に対して、「母から自分へ」と題して書いた生徒がいて、それがまたおもしろいので、次のクラスに採用してみたところ、相手の視点から自分自身をみつめており、有意義に思われた。 
 結果(レポートにした記録内観)を以下に示すことにする。ただし、紙数の都合があって、ここには、ごく一部を紹介するにとどめたい。
 例1. 中学3年・女子・U子
 【自分から友人のK代へ】
①K代が私を信用してくれてありがとう。真剣にいろいろ相談にのってくれてありがとう。K代はとてもやさしいから私も人の悪いところをみるよりも、良いところをみるようにしょうと心がけるようになったよ。2人で遊ぶのはとても楽しい。K代は私を楽しませてくれたの。秘密とかは、ぜったい守ってくれるから、一番信用ができる友達だと思っている。忘れ物を貸してくれたね。U子(私)は、大きい声ですぐにいろいろ言ってしまうけど、K代は私に「Uちゃん」と注意をしてくれたね。悪いところとかも指摘してくれた。おかげでいろいろ気をつけるようになったんだよ。おしゃれとか服も教えてくれた。カラオケ、好きにならなきゃ。これから困るから、練習しなくちゃと気を使って、カラオケにさそってくれたね。遊びに行く時、服貸してくれてありがとう。
②(あなたが)困った時に相談にのってあげた。お菓子を作った時、あげた。面接用の服を貸してあげたよ。勉強を教えてあげた。
③「いいよ」と言っておきながら、塾があって急に行けなくなっていいかげんでごめんね。選択家庭科のとき材料とか、たまに忘れてごめんね。借りたもの返すの遅くなってごめんね。気分やで、機嫌がいい時と悪い時の差が大きすぎてゴメンネ」
 以上が、自分から友達に宛てた手紙である。
 次は、その逆の、相手から自分への手紙を相手の身になって、自分が想像して書いたものである。
 例2. 中学3年・男子・M太
 【母親から自分へ】
M太が生まれたばかりの時は、すぐに泣いてすごく手のかかる子だったんだよ。身体も小さく、どちらかと言えば病弱だったM太をよく病院へ連れていったことを覚えているよ。小学生になってサッカーを始めてからは病気はなくなったけど、今度はケガが多くなったね。本当に今考えてみれば手のかかる子だった。これから高校生活をやっていく上で、くれぐれもケガや病気に気をつけてね。
 次には、結果について若干の考察を加えることにする。
 目的1は、授業に参加したことですぐに達成された。
 目的2については、特別教室を用意してもらい、生徒にはクラス全員の顔が見える形態、つまり円陣に着席させたことによって、授業への意欲を刺激したらしく、個々の発言が増えた。「あいつがこんなことを考えていたとは知らなかった」とか、「自分のクラスが好きになった」という感想を寄せた生徒もいる。
 目的3は、生徒の記録内観を保護者との個人懇談に活かした担任もいた。
たとえば、中学2年生の女子は、急に母親に反抗的なり、最近では口も利かなくなった。母親は心配になって、担任に相談した。相談を受けた担任が対応に困ってSCに助言を求めてきた。なんというタイミングのよさなのか、ちょうどその日、その子のクラスで道徳の授業を担当することになっていた。全員に同じ課題を与えたことは言うまでもないが、「母親に対する三項目を調べてみよう」という課題に対してその子は真剣に取り組んでくれた。レポート用紙に記録した内容を示すと以下のようである。
<してもらったこと>
私はお母さんに、とってもたくさんの愛を毎日貰っています。だから私はいつも元気でいられます。つらくたってお母さんの愛のおかげで、私は笑顔でのりこえられます。
<して返したこと>
 私は毎夜お母さんに、今日あった出来事を話すよね。ムカついたコト、うれしかったコト、感動したコト、疑問に思ったコトとか色々。何でかって、私はお母さんと1秒でも長く一緒にいたいからだよ。気付いていた?
<迷惑かけたこと>
 前に「私なんてなんで生んだの?」ってケンカした時言ったよね。本当にゴメン。お母さんの立場に立ったら、どんなにつらかったか少しわかつた。ごめんね。私アトピーがひどくなっちゃうと「なんで生まれてきたんだろう」って思っちゃうんだ。でも最近はこういう風に考えることにした。私がアトピーなのは、神様が私に与えた試練。私には乗り越えることができるから、神様がアトピーにしたんだって。だから、今のアトピーの傷や傷跡は私の誇り。運命と戦っている私の誇り。もう絶対言わないね「何で生んだの?」なんて…。
 SCが本人の了解を得たうえで、担任はその子のレポートを母親に見せることにした。これまで娘の反抗的な態度に困惑していた母親であったが、それを読んだ後、涙を浮かべ、「あの子がそんなふうに考えていたとは知りませんでした」と喜びを隠さなかった。
わが子の心を知って、母親は落ち着きを取り戻し、その結果、親子の間に対話が復活することになった。もとより、こんなふうにすべての子がうまくいくわけではないが、内観的授業によって親子の関係が改善されたことは少なくない。実際、別のケースではあるが、子どものレポートを読んだ母親が内観研修所へ集中内観をするために出掛けたこともある。内観的授業が親子の関係の見直しをもたらしたということは、それはある意味で「家庭への適用」に繋がったとみてよいし、副産物であった。
ところで、内観的授業の副産物は他にもある。たとえば、生徒同士の仲たがいが回復したケース、あるいは、ある教師が苦手にしていた生徒の内観レポートを読んで、愛着を感じるようになったこともある。

2、家庭への適用
 先に内観の学校への適用について述べたが、「家庭への適用」というとき、ふつうは竹元が述べるように、「家族の病理と問題行動」が対象になるであろう。竹元はシンポジュウムにおいて「加害者の生育歴」と「被害者の生育歴」に注目して内観の適用を論じているが、それは従来、家族内観として試みられてきた方法のように思われる。本誌はその創刊号(1995)の中で、「家族と内観(7))」について特集を組んでおり、筆者(2))も心理臨床の立場から若干の考察を試みたことがあるので、ここに繰り返すことは控えよう。
ただ、今回、竹元の発言で注目したいのは、「予防医学」として内観を適用することが提言されていることであった。今後の内観が展開していくとするならば、その視点は大切なことのように思われる。石井の学校内観や芹澤の企業内観も「予防」あるいは「精神衛生」に寄与する活動としてみることができよう。そして、筆者が内観的授業として試みた学校での方法は、不登校や問題行動を起こした生徒ではなく、教育長の言う「その他大勢の普通の子」を対象にしたと言う意味において、まさに「予防心理学」としての働きをしたのではと思われるのだが、果たしてどうだろうか。
 いずれにしても、いわゆる普通の家庭の中に内観が導入されることは、この時代にあって必要なことのように思われる。カルチャーセンターや公民館などを利用して、たとえば、ラジオ体操のように、地域の中で内観を浸透させる方法はないものだろうか。  
当日のシンポジュウムの際に、竹元の提言を聞いて連想したことである。

Ⅳ. まとめに代えてー内観のエッセンス(3))
 内観をそれぞれの分野で実践するとは言っても、集中内観を原法通りに行なうことは難しい。そうなると変法で行なうことになるが、その際、内観のエッセンスだけはおさえておかなければならないだろう。
 周知のように内観のルーツを辿るとき、身調べに行き着く。その身調べは浄土真宗の一派に伝わる行であった。「真宗入門」を著したケネス・タナカによれば、浄土真宗とは、浄土教の真のエッセンスの意味だと言う。浄土教は8世紀に日本に伝わり、それから約400年後に親鸞の教えに基づき,浄土教の一つである浄土真宗が生まれた。そして、略して日本では『真宗』,欧米では“Shin”とも呼ばれているとのこと。
 浄土真宗の入門書としてアメリカで好評を博しているというこの本の中で,筆者が一番印象深く思ったのは,「海で漂流した船乗り」の話であった。著者のケネス・タナカはその話を浄土真宗の教えの核心を伝えるために紹介しているが,筆者には心理療法としての内観の治療観,あるいは内観のエッセンスとして読めた。
そのたとえ話とはこうである。
「一艘の船が,ある熱帯の島から出航しました。陸を遠く離れて何時間も航海した頃,一人の船員が誤って海に落ちてしまいました。他の乗組員は誰もそのことに気づかず,船はそのまま航行してしまいました。水は冷たく,波は荒く,真っ暗闇でした。大海の真っ只中で,その男は沈まないように死に物狂い足をばたつかせます。
やがて海に落ちる前に見た島に向かって泳ごうとするのですが,すでに方向感覚を失っており,方向が正しいかどうか確信が持てません。船乗りですから泳ぎは上手なのですが,腕も足もすぐに疲れ果てて,胸も苦しくなって喘いでいました。大海の中で迷い完全に孤独になってしまった男は,もうこれでおしまいかと思いました。絶望の中,男のエネルギーは砂時計の砂のように消耗していきました。顔を打つ海水を飲み込んで息ができなくなり,体が海の底に引きずり込まれるような気がし始めています。その時,海の深淵から声が聞こえてきたのです。『力を抜きなさい。力むのを止めなさい。そのままでいいのです。南無阿弥陀仏』その声を聞いた船乗りは,自分の力だけでむやみに泳ぐことを止めてみました。夏の昼下がりに裏庭のハンモックの上でのんびりするように,くるりと仰向けになって足を伸ばしてみました。すると,力まなくても海が自分を支え浮かせてくれることを知り,大喜びしたのでした。―中略―助かったと知り喜んだ船乗りは心から感謝しました。そして,『本当ははじめからずっと大丈夫だったのだ』ということに気がついたのです。ただそれを知らなかっただけなのです。海はまったく変わっていないのに彼の考え方が変わったので,この船乗りと海との関係も変わったのでした。海は危険で恐ろしい敵から,彼を支え守ってくれる友となったのです」と。
 内観面接に携わっていると、この船乗りのようなケースに出会うことが少なくない。
以前に拙著で「いない いない ばぁ」を内観のエッセンスとして指摘した際に取り上げた事例があるが、ここにも掻い摘んで紹介することにしよう。
20代の青年が内観にやってきたときの話である。母親は統合失調症と診断されて青年が幼い頃から今なお入院中であった。青年の内観は初日から暗礁に乗り上げてしまった。
「入退院の繰り返しで母はほとんど家にいなかった。だから,お世話になったことはなかった」と抵抗するだけでなく、「死んでいればまだしも,生きてはいるがほとんど生ける屍のようで,母に抱かれた記憶もなければ,甘えた経験もない」とまで言い放ったのである。そのため,母親から始める通常のテーマとは違う別メニューでの内観が始まった。しかも,別メニューは,テーマだけではなかった。食事についても,たとえば「そばアレルギー」「生野菜は匂いで吐いてしまう」「牛乳と卵も受け付けない」などといろいろと注文が多く,別メニューが必要であった。別メニュー,つまり特別メニューがこの青年の内観のキーワードであった。
ところが,内観4日目のふた廻り目になって,「幻聴に悩まされながら,ブツブツと独り言を呟きながら台所に立って僕の弁当を作ってくれていました」と報告して後,泣き崩れてしまった。
3日目の内観は担任の先生に対する自分調べに入った。1年生の運動会のとき,母親は退院したばかりで運動会には来てくれなかった。父親は,早朝に出張へ出掛けてしまった。プログラムは親子の二人三脚になっていた。級友たちが母親に手を引かれて嬉しそうに入場門に集まる姿を見て,その場にいられなくなった。そして,トイレに逃げ込んだ。担任の先生が必死になって探してくれた。「ぼくにはお母さんなんかいないもん!」と泣きながら言った。すると,担任の女先生がやさしく抱きしめてくれて,母の代わりに一緒に走ってくれた。その場面を屏風の中で思い出したとき,どういうわけか,前述の弁当を作ってくれた母親の姿が同時に甦ったのである。つまり,内観中の食事も他の内観者とは違う特別メニューが出されたが,女先生もまた特別メニューとなって母親代わりを買って出たのである。それによって,現実の母に求めて得られなかった「母性」に触れることができた。そして,その「母性」は,病んではいたが実母にもあったことを内観で想起したというわけである。
 つまり、自分には母からの愛情は与えてもらえなかったと思っていた青年が、内観をしていて「自分はちゃんと母親から愛されていた」ことに気づいたのである。これはちょうど、海で漂流した男が「本当ははじめからずっと大丈夫だったのだ」と気づいたのと同じ心境に酷似しているように思われる。

参考文献
1) 石井光:学校における内観 第28回日本内観学会大会論文集 2005,5,20 p18
2) 真栄城輝明:家族と内観をめぐってー心理臨床の立場からー 内観研究第1巻第1号 1995 p23-32
3) 真栄城輝明:心理療法としての内観 朱鷺書房 2005,3,25 p77
4)芹澤幸彦:内観療法の職場における活用 第28回日本内観学会大会論文集 2005,5,20 p20
5) 鈴木大拙:東洋的な見方. 上田閑照編 岩波文庫 2000,10,16 p58
6) 竹元隆洋:家族の病理と問題行動 第28回日本内観学会大会論文集 2005,5,20 p21
7) 巽信夫:「家族と内観」その今日までの歩みー癒しとしての立場からー 内観研究第1巻第1号 1995 p3-11

2006.9.23-26 WACP2006Congress Beijing
S-III-22: Culture-unique psychotherapy developed in Asia.

About Naikan Therapy
“Naikan therapy in Japan: Introspection as a way of healing”
MAESHIRO Teruaki
From Yamato Naikan Center in Nara, Japan


Introduction
Hello, my name is Teruaki Maeshiro and I am a clinical psychologist. After twenty-four years working in Higashi Kasugai Hospital in Aichi Prefecture, I took my current position as the third director of the Yamato Naikan center in Nara, a place to which the founder of the Naikan method, Ishin Yoshimoto, had devoted his entire life.
Yoshimoto was enlightened on November 12th, 1937. He wished to let all the people in the world know this great joy. In Japan, the method has now evolved beyond the religious world and is now used in the industrial, educational and medical worlds as well as correctional institutions across the country. Internationally, Naikan has also gained popularity and now has several established centers across the globe. As Yoshimoto wished, Naikan has spread throughout the world.
In this symposium, I will address four points to describe Naikan therapy: 1) Naikan and its founder Yoshimoto, 2) the brief history of Naikan, 3) the system of Naikan, and 4) the internationalization of Naikan.

1) Naikan and its founder
His childhood:
The founder of Naikan, Ishin Yoshimoto, was born as the third boy of five siblings in Yamatokōriyama, Nara Prefecture on May 25th, 1916. His father, Ihachi, was an eager member of the village assembly while running a fertilizer business of his own. Little Ishin started to learn calligraphy in his junior high school years and later became an excellent calligrapher. Although his first name, Ishin, was actually his pen name, and his real name Iinobu, he continued to use his pen name as his real name in his later years. He was a top student and excelled in all of his classes except for physical education.
He was gentle and compassionate. One day during his first grader year, he cried all that night upon hearing his teacher had to leave school because of an illness. The next year, his younger sister Chieko died at the age of four. After this tragic event, his mournful mother became absorbed in Buddhist devotional exercises. Young Ishin accompanied his mother on many of her temple visits. In retrospect, we can see how Ishin’s formative childhood experiences played a crucial role in the formation of his personality and life philosophy later on.

The road to Naikan:
In his youth, meeting his future wife, Kinuko, also had a significant influence on his religious devotion. Falling in love, he wondered “What should I do to be loved by her?” By the time they met, Kinuko is said to have already obtained enlightenment. Ishin loved her so much and wanted to marry her that he decided to follow the same path that she did. Against his father’s opposition, he tired Mishirabe, the prototype of Naikan, to obtain enlightenment. He failed three times, before he finally succeeded on his fourth attempt. From this experience, he was inspired to develop Mishirabe into something simpler that could be used effectively by all people. This is how Naikan was born.

2) The brief history of Naikan
1937: At around 8 p.m. on Nov. 12th, Ishin Yoshimoto, the founder of Naikan, is said to have obtained enlightenment through Mishirarabe, the prototype of Naikan.
1941: Yoshimoto refined Mishirabe and renamed it Naikan.
1953: Yoshimoto opened his own Naikan center in Nara.
1968: The three questions (themes) of Naikan were fixed into their current form.
1978: The 1st annual meeting of the Naikan Association (currently called the Japan Naikan Association) was held in Nara.
1980: The 1st Naikan Seminar was held in Austria.
1985: The Naikan Training Institute Association was established.
1988: Ishin Yoshimoto passed away at the age of 73.
1991: The 1st International Naikan Congress, held every three years, was held in Tokyo.
1992: Naikan therapy was presented (lecture-only) at the 7th East China Mental-Medicine Exchange Society in Shanghai.
1993: The Naikan method was clinically introduced into China at Shanghai Mental Health Center.
1998: Japanese Naikan Medicine started.
2003: The 1st International Congress of Naikan therapy, hosted by the Tottori University Faculty of Medicine, was held in Tottori Prefecture.
2005: The 2nd International Congress of Naikan therapy, hosted by the Shanghai Mental Health Center, was held.

3) The System and Procedure of Naikan
Intensive Naikan
There are two forms of actual practice in Naikan. One is called intensive Naikan, which is a week long program, and the other is daily Naikan. Yoshimoto said “Intensive Naikan is like an electric pole and daily Naikan is like wires that connect the poles. Without the wires between the poles, even if you built many poles, the electricity can’t flow.” In other words, intensive Naikan is a basic training and daily Naikan is the application to everyday life. After the basic training is completed and one acquires the Naikan way of thinking, one is able to continue to use it on a daily basis by taking a few moments each day. It is best to be able to do daily Naikan regularly. Here, I will outline the basic procedure used in intensive Naikan training.

1. The setting:
The practitioner should sit comfortably in the corner of a quiet room, walled off by a byobu folding screen. The byobu cuts off the outside world and protects the practitioner from any visual stimulation. This unique setting makes it easier for a person to explore their inner world.

2. The code of conduct:
The practitioner is required to remain within the walled-off section at all times, except to use bathroom. One must also have meals here, which the counselor will bring three times a day. Reading newspapers, watching TV, and listening to the radio are prohibited. Using the telephone or talking to others is also not allowed. Drinking alcohol is of course strictly prohibited, although smoking is permitted in the designated smoking area.

3. The daily schedule:
The practitioner gets up at 5:00 am in the morning and goes to bed at 9:00 pm. Every one or two hours, a Naikan counselor visits the practitioner and conducts a short interview. This usually lasts five to ten minutes and is held eight or nine times a day for the duration of the week.

4. *The question-association-search method:
Unlike free association in psychoanalysis, Naikan has strict instructions to help you to examine yourself by exploring the relationships with the important people in your life. There are three set questions you should always ask yourself regarding them: (1) What did you receive from a specific person? (2) What did you return to that person? (3) What troubles, worries, and difficulties have you caused that person? Using these questions, the practitioner examines themselves in their life relationships. I personally call this unique approach the question-association-search method.

4) The internationalization of Naikan
Its therapeutic structure and cultural differences
Originating from Japan, Naikan is heavily influenced by Japanese culture. In its setting, the typical Naikan room in Japan is filled with Japanese things, such as the byobu folding screen, tatami flooring mats, and paper sliding doors. However, these things are not necessarily essential to the Naikan therapeutic process itself. For example, in Japan, the practitioner should sit in proper seiza position during the interview. In other cultures, however, it may be very difficult to sit in such a position for extended periods of time. In this case, a chair may be permitted during interviews.

Naikan questions and cultural differences
According to Naikan methodology, one is supposed to recollect one’s relationships with specific people, usually starting with one’s mother. Once when I visited Germany, however, Professor Wolfgang Blankenburg from Philipps-Univesität Marburg told me that “Germans generally think the father has a more crucial role than the mother. So in this country, the father might be the first person to be reflected upon instead.” This idea left a strong impression on me.
As already mentioned, the method has the three set questions. On the advanced stage, however, there is a fourth question regarding lying and stealing: What have I stolen in my life? How have I deceived people? By examining one’s life through these questions, one comes to be faced up with intense feelings of guilt, which ultimately leads to the realization of the transience of life. However, this may not always be the case in different cultural contexts. In the 2nd International Congress of Naikan Therapy in China last year, for example, Professor Wan Lu-cheng pointed out that “Here in China, people may find it difficult to deal with their feelings of guilt the same way Japanese people do.”
In terms of the internationalization of Naikan, these are just some of the cultural differences that need to be considered seriously.

5) Final comment
Now that Naikan is going beyond its cultural boundaries, some components of the method might need to be changed. Some important questions arise here. To what extent should adaptation be permitted? Whatever changes may happen, can Naikan still be called Naikan? Given this, it is necessary to ponder what the essence of Naikan is all about. Doing Naikan is about listening to the innermost recesses of your soul, especially when you are broken-hearted, in a time of adversity, or in great tribulation. This is what I think is the essence of Naikan.


*Maeshiro T. (2005). Naikan as a type of psychotherapy. Osaka: Tokishobo.

2006.9.23-26 WACP2006Congress Beijing 
S-III-22: Culture-unique psychotherapy developed in Asia.

内観療法の紹介
“Naikan therapy in Japan: Introspection as a way of healing”
真栄城輝明
(大和内観研修所)

 Ⅰ、はじめに
演者は臨床心理士である。24年間の病院内観臨床を経て、内観法の創始者・吉本伊信師が内観指導に明け暮れた内観研修所にて3代目の所長として内観面接に従事している。
1937年11月12日、宿善開発を果した吉本伊信は、「この悦びを世界中の人々に伝えたい」と願った。世界とは文字通りに国境を越えた諸外国のことであるが、国内においては、宗教界にとどまらず、矯正教育界・産業界・学校教育界・医療界など、各分野への普及となって実現している。
本シンポジウムの企画者が演者に求めてきた課題は、「日本で生まれた内観療法について紹介してほしい」ということなので、以下に示す項目について述べてみたいと思う。

1, 内観と吉本伊信
2, 内観の歴史
3, 内観の方法
4, 内観の国際化に向けて

Ⅱ、内観と吉本伊信

 【生い立ち】
内観の創始者・吉本伊信は、1916年5月25日5人兄弟の3男として、奈良県大和郡山市に生まれた。父・伊八は、肥料商を営む傍らで、村会議員をつとめ、学校の父兄会の役員も熱心に引き受けていた。伊信少年は中学時代から書道を学んで、書家を目指した。伊信(ISHIN)という呼び名は、書家の号であり、本名は伊信(INOBU)であるが、晩年は「ISHIN」で通した。少年は、勉強は良くできて、いつも級長をしていたが、運動は不得意であった。

 【内観との出合い】
 元々、伊信は優しい性格の持ち主であった。小学校1年生のとき、担任の先生が病気のため学校を辞めると聞いて、夜中にひとりで泣いている。2年生のとき、ひとり娘の妹・チエ子が4歳で他界してしまった。可愛い盛りの娘を亡くして母親が嘆き悲しんで、求道・聞法・読経勤行に打ち込む姿を傍らで見て育ち、お寺参りにも同行した。多感な少年は、母親の影響を強く受けて、信仰心が芽生えたと思われる。そして、青年期になって、キヌ子夫人との出会いが決定的となった。
「好きになった人に尊敬されるには、どうしたらよいか?」
 伊信青年は、惚れたキヌ子と結婚したいと思った。そのためには、すでに転迷開悟の境地に達していたキヌ子のように、伊信は自分も又道を求めることにしたという。
そして、当時、「身調べ」と呼ばれていた内観の前身に挑んだ。父・伊八は息子の「身調べ」には、反対であった。伊信は父の目を盗んで再三、それに挑戦するが、3度の挫折を経験している。苦難の末、漸く4度目にしてついに「転迷開悟」を果たしている。吉本伊信が内観と出合うためには、祖母・母・妻の存在は欠かせなかった。
 
Ⅲ,内観の歴史

1937, 11月12日午後8時、吉本伊信、身調べによって宿善開発。内観普及の開始。
1941 内観法という言葉が使われ、ほぼ現在の方法が確立。
1953 奈良県大和郡山市に内観道場(現在の大和内観研修所)を開設。
1968 内観3項目が確立。
1978 内観学会(現在の日本内観学会)第1回大会の開催。
1980 オーストリアにて第1回内観研修会開催。
1985 内観懇話会(現在の日本内観研修所協会)発足。
1988 吉本伊信、永眠(73歳)
1991 第1回内観国際会議が日本国・東京で開催(以後3年毎に日欧で開催)
1992 第7回華東地区精神医学大会(上海)にて内観療法が紹介される。  
1993 上海精神衛生中心に中国で初めての内観療法室が設置。
1998 内観医学会(現在の日本内観医学会)が発足。
2003 第1回国際内観療法学会が日本国・鳥取大学医学部の主催で開催。
2005 第2回国際内観療法学会が中国・上海精神衛生中心の主催で開催。

Ⅳ、内観の方法

【集中内観】
内観には日常生活の中で行う「日常内観」と「集中内観」がある。吉本は集中内観を電信柱に、日常内観を電線に喩えて、両者は車の両輪のように大切なものだと述べている。あるいは、集中内観を基礎訓練だとするならば、日常内観は応用編ということになる。集中内観で身に着けた方法を日常生活の中でも一定の時間、内観を出来るようになることが理想だといわれている。ここでは、基礎訓練としての集中内観について述べる。

1, 物理的環境
静かな部屋の片隅に屏風が立てられて、内観者はその中に籠ることになる。トイレ、入浴以外は、屏風のなかで静かに過ごす。食事も屏風の中でとることになっている。屏風は内観者と外界を遮断するだけでなく、外界から内観者を保護する、というはたらきをしている。内観者は、食事や風呂など、日常生活における一切の雑用から解放されて、自分を見つめることだけに専念できる。

2, 行動の制限
屏風の中では楽な姿勢で過ごしてもよいが、原則として、内観中は屏風の中で過ごさなければならない。面接時だけは正座の姿勢で面接者に内観した内容の一部を報告する。新聞・ラジオ・テレビはもとより、電話などで外界と連絡する事もできない。就寝時は、屏風をたたんで、その場に布団を敷いて休む。同室に他の内観者がいても、お互いの私語は禁止されている。内観室は禁煙になっており、喫煙者には喫煙室が用意されている。勿論、飲酒は厳禁である。

3, 時間的条件
面接はおよそ1~2時間おきに面接者が屏風まで赴いて行われる。1回の面接時間は、5~10分程度、1日に8~9回程度の面接が繰り返される。起床は午前5時。消灯は午後9時となっている。食事は一日3食を面接者が屏風まで配膳し、終了後は下膳する。風呂の準備も面接者の仕事である。内観者は、1分1秒を惜しんで内観を続ける。

4, 課題連想探索法
内観は、自由連想法と違って三項目というテーマが設定されている。それを私は、「課題連想調査法」と呼んでいる。三項目を具体的に示せば、対象者に対する自分自身のことを調べるわけであるが、その際に、たとえば母親に対して自分自身が①「してもらったこと」②「してかえしたこと」③「迷惑をかけたこと」というふうに、三つの視点からみていくのである。

Ⅴ、内観の国際化に向けて

【治療構造と文化差】
  周知のように、内観には日本文化で生まれた小道具が使われている。たとえば、畳、
屏風、座布団、襖あるいは障子、お膳などである。それはしかし、果たして内観に欠くことのできないものなのか?国際化を考えてゆくとき、すぐに直面する問題であろう。
 たとえば、外国から内観に来た場合、正座の姿勢が出来ないことが少なくない。実際、中国からの内観者を迎えたとき、ひざを崩してもらって面接したことがある。ときには椅子を持ち込んでの面接になることもある。ヨーロッパでは屏風の変わりに衝立を屏風代わりにしているようである。
また、内観の内容について言えば、たとえば、対象人物を選定する際、日本では、まず母親が優先されることが多い。けれども、かつて、ドイツを訪問したとき、マールブルグ大学のブランケンブルグ教授が私的な会話の中で「ドイツでは、まず父親が重要なので先に調べ他方が良いかもしれません」と語ったことが印象に残っている。

【内観のテーマと文化差】
先述したように、内観には三つのテーマが用意されている。三つのテーマの他にも、「嘘と盗み」というテーマがある。これらのテーマに沿って自分自身を見つめるとき、内観者は罪悪感と向き合い、無常観を観取するまでに至るとされている。しかし、果たして文化の違う諸外国において、日本と同様にそのテーマを扱って良いだろうか?
というのは、昨年の国際内観療法学会の際に、上海精神衛生中心の王祖承教授が私に「中国では罪悪感というテーマを日本と同じように扱うのは難しいです」と話されたことが強く印象に残っているからである。
 
Ⅵ、さいごに
このように、内観の国際化を考えてゆくとき、文化差については十分に考慮せざるを得ないだろう。屏風が衝立に変わったり、畳がベッドやソフアに変わるのは了解するのも難しくはないが、内観のテーマが改変されてしまうと、果たしてどこまで内観と呼べるのか、考えさせられてしまう。内観のエッセンスだけは、抑えておく必要がある。
そこで、内観のエッセンスを簡単に示すならば、「内観は、心を病んだり,不幸な出来事に遭遇したり,人生の荒波に呑み込まれそうになっておぼれかかったとき,魂の深淵からの声を聴くためにする」と言っておくことにしよう。

(英文抄録あり)

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