No.21
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心理療法としての内観
真栄城輝明著
朱鷺書房、2800円、2005年3月刊
(神戸松蔭女子学院大学)三木善彦
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内観療法はクライエントが自分の対人関係を、「世話になったこと」「(世話を)して返したこと」「迷惑をかけたこと」の3点から振り返り、面接者に簡潔に報告するという単純明快な心理療法である。その基本である集中内観法では1週間の宿泊研修で、クライエントと1~2時間ごとに3~5分面接するという形態であり、早朝から夜遅くまで世話をする面接者側の負担は大きい。そのため実施する施設は限られ、日本国内で研修所は10数カ所、病院は数カ所である。そのため内観療法の実践的研究者も限られており、本格的な研究書が少ないのが私たち内観療法家の悩みであった。その意味で本書は待望の書である。著者は精神病院で内観療法を20数年間実施し、最近、創始者・吉本伊信の研修所を継いで臨床経験を重ねている。本書は30年にわたる内観療法の経験を凝縮し、考察を加えた労作であり、内観療法に関心のある人々にとって必読の書となるであろう。
第Ⅰ章で内観のルーツをたどり、第Ⅱ章で内観の治療構造を外的構造と内的構造にわけて述べている。第Ⅲ章では内観療法研究の方法を心理テストと間主観的方法論で光を当てているが、後者では一つの事例をめぐってクライエントの視点、面接者の視点、研究者の視点という3つの視点から考察しているのは興味深い。事例研究においてこのような複眼的な研究が将来も行われるならば、さらに豊かな知見を得ることができるであろう。第Ⅳ章では内観の臨床応用として、アルコール依存症、ターミナルケアなどの事例、統合失調症やアルコール依存症の家族成員に対する内観の効果が論じられている。第Ⅴ章では内観臨床をめぐる考察として、理論の有用性などについて述べている。さらに著者の該博な知識を反映する参考文献はもちろんのこと、豊富な内観関係文献一覧は今後の研究者にとって役立つものである。
ところで、本書には多彩な事例が紹介されている。例えば統合失調症の母親をもつ青年は、「『入退院の繰り返しで母はほとんど家にいなかった。だから、お世話になったことはなかった』と自嘲気味に話していたのだが、内観4日目のふた廻り目になって、『母は幻聴に悩まされながら、ブツブツと独り言を呟きながら台所に立って僕の弁当を作ってくれていました』と報告して後、泣き崩れてしまった。」この事例に限らず、著者はクライエントが周囲の人々の愛情を感得し心の絆を結んだ瞬間に数多く立ち会っている。だからこそ、「何のために内観をするのか? 内観のエッセンスはなにか? と問われたならば、『心を病んだり、不幸な出来事に遭遇したり、人生の荒波に呑み込まれそうになっておぼれかかったとき、魂の深淵からの声を聴くためにするのです』と答えることにしている」という言葉が出てくるのであろう。もちろん、魂の深淵からの声を聴くのを援助するのはどの心理療法でもそうであろうが、とくに内観療法の場合に強く感じるのは私のひいきか?
(本文は、内観研究12巻p87から転載しました。)
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No.20
「自力」と「他力」の問答
大和内観研修所 真栄城 輝明
「内観は真宗のお寺(内観寺)で行われていると友人が言うのですが、本当ですか?」
真宗の信徒で隠居の身だという男が、突然に電話をかけてきて、そう訊いてきたのである。
茶飲み話にでも内観の話が出たのであろう。「友人も私も内観の体験はないのですが、一週間という期間、屏風の中に籠(こも)って禅の修行のようなことをする、と聞いたものですから・・」と、電話の理由をあれこれ並べて見せたが、男の話を掻(か)い摘(つま)んで紹介すればこうである。
「修行の仏教とされる道元の自力仏教に対して、親鸞の浄土真宗は他力仏教であり、屏風に籠(こも)って修行の真似事をするのは解せない。本当に、内観は真宗から生まれたのか?」と。
男は、仏教の知識が豊富のようであった。知人の紹介する内観の本にも目を通したらしい。
「内観がやっていることはまるで自力修行のようだし、真宗の他力思想からみると腑に落ちないので電話をしました」というのである。
しかし、私の仏教の知識ときたらほとんどゼロに近く、男が納得するような問答は出来なかった。私は自分の不明を恥じた。そこで、まず「自力と他力」の相違を知ることから始めた。その類の本を手当たり次第に求めた。「法華経を生きる」の著者・石原慎太郎と「他力」の著者・五木寛之の対談は両者の比較に好適であった。
たとえば、石原は自力の例に宮本武蔵が吉岡一門と一乗寺の決闘へ出掛ける場面を挙げた。武蔵が不安になって、通りかかった神社で神の加護を祈ろうとして、はっと我に返り、「神仏を頼っては負けたも同然だ」と、祈らずに決闘へ向かった。その時を石原は、武蔵が「他力」に頼らず「自力」に徹したのだと考える。
ところが、「他力」という言葉を「あなた任せ」「人任せ」の意味で解する人がいるが、それは本来の「他力」とは違う、と五木は説く。親鸞が「本願(・・)他力(・・)」と表現したように、「他力というのは、自力を奮い起こさせるもの」(鈴木大拙)であって、目に見えない大きな力、人智を超えた大きな光が自分を照らしてくれることを言うそうだ。なるほど、これはユング心理学の共時性に酷似するものとして読めた。五木によれば、「神や仏に助けを求めるような弱い心ではだめだ、と武蔵は思った。全力を振り絞って、自分の力だけで闘わなければ、と決意した。じつは、その『決意』こそが、見えざる『他力』の光が彼の心を照らした」事になるようだ。
そして、「他力は自力の母だ」と言うのである。
もし、再び男から電話があれば、内観が「他力」を知るための方法であることを話せそうだ。その時に、内観のエッセンスを伝えるために次の「海で漂流した船乗り」の物語も紹介しよう。
「航海中に,一人の船員が誤って海に落ちてしまった。誰もそのことに気づかず,船はそのまま航行した。水は冷たく,波は荒く,真っ暗闇。大海の中で,男は死に物狂いで、島に向かって泳ごうとするが,方向が正しいかどうか確信が持てなかった。船乗りなので泳ぎは上手いが,腕も足も疲れ果て,喘(あえ)いでいた。大海の中で迷い孤独になった男は,もうこれでおしまいかと思った。体が海の底に引きずり込まれそうになった時、海の深淵から声が聞こえてきた。『力を抜け。力むのを止めろ。そのままでいいのだ』その声を聞いた船乗りは,自分の力だけでむやみに泳ぐことを止めた。すると,力まなくても海が自分を支え浮かせてくれることを知った。船乗りは心から感謝した。そして、本当ははじめからずっと大丈夫だったことに気づいた。それを知らなかっただけなのだ。海は変わっていないのに彼の考え方が変わったので,彼と海との関係が変わったのである」(真宗入門)。
(『やすら樹92号』シリーズ【内観をめぐるはなし】第49回より転載しました)
No.19
少年の祈り
大和内観研修所 真栄城 輝明
1月23日の新聞に名護市長選の結果が報じられた。沖縄では米軍普天間飛行場移設問題が大きな争点になっているが、どこへ移そうと問題は解決しない、と教わったことがある。
それは、小学校低学年の頃のことだ。
「オイ、昨日のミサイル、すごかったぞ!」
大柄の優太は、教室の一番後ろの席で、人一倍大きな声で興奮気味に昨日見たミサイルの話しを始めた。いつものことだが、優太のまわりにクラスの男の子たちが集まってきた。
「ぼくもみたぞ、カッコよかったなぁ」
優太に同調して哲雄が言った。子どもたちの住む村には丘に囲まれた平野が広がっていたが、丘のほとんどは米軍基地として使われていた。平和な村の男の子たちは、時々姿を見せるミサイルに逞しい男性像を投影していたのであろう、勢い話しは肥大し、止まるところがなかった。
「ぼくのおとうさんは、司令官と友達なので、今度の休みには、ミサイルに乗せてもらうんだ」
村長の息子が調子に乗ってホラを吹いた。
「すごいなぁ、いいなぁ」
ぼくは口には出さなかったけど、村長の息子がうらやましくて、心の中で嫉妬した。
優太のように堂々と「ぼくも乗せてくれよ」とは言えなかったのである。ぼくは転校してきたばかりで、まだ友達がいなかったからだ。
ミサイルというのは、小学校のすぐ上の丘にある米軍基地にときどき姿を見せる弾頭を装着した誘導弾のことである。その姿形は愛知県小牧市の田懸神社に奉納されている男根よりもはるかに立派である。それを知る由もなかったが、男の子たちには憧れの的であった。
沖縄の人口は、平成9年に120万を数えているが、県下五三市町村のうち25市町村にわたって39施設に米軍基地(24,286ha)が所在し、県土面積の10.7%を占めている。つまり、沖縄に日本の4分の3の米軍基地があって、実に、全国の74.8%の米軍基地が沖縄に集中していることになる。よくマスコミは、「沖縄には基地がある」という表現をするが、沖縄に生まれ育った身にはそれはちょっとちがうなぁ、と思ってしまう。実感を言うならば、「沖縄に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある」というのがぴったりなのである。
さて、男の子たちの話しは、現実と空想が入り混じって次第にエスカレートするばかりだ。
そこに、始業のベルが鳴った。どうやら担任の美佐先生は、子どもたちの会話の一部始終を聞いていたらしく、今まで見せたことのない悲愴な面持ちで、こう話し始めたのである。
「さっき、男の子たちがミサイルに乗りたい、という話しをしていましたが、みなさん、ミサイルがどういうものか知ってるんですか?」
美佐先生は一人ひとりに諭すように話した。優太も哲雄も村長の息子までもさっきの元気はどこへ行ったのか、みな黙って聞いている。
美佐先生の表情には気迫がこもっていた。
「ミサイルには、原子爆弾が積まれていて、もし、あのミサイルが飛び立つことがあれば、この沖縄は、吹っ飛んでしまうのですよ。沖縄だけでなく、日本が、いや、世界がなくなるかもしれないのよ!」
教室中が静まり返った。ぼくは村長の息子をうらやましいと思ったことを恥じた。戦争の恐怖が襲ってきた。翌日、米軍基地にミサイルがそびえた。ぼくは人目を避け、手を合わせた。
「どうか、ミサイルさん、飛ばないでください!戦争にだけは行かないでください」
ミサイルが姿を現すたびに必死に祈った。祈るしかなかった。今、面接者として合掌するたびに、少年の頃の祈りを思い出す。
(『やすら樹96号』のシリーズ【内観をめぐるはなし】第53回より転載しました)
【マブヤーの会】
年に1回の開催。
日 時:2006年は未定
NO.18
シリーズ【内観をめぐるはなし】第44回
内観と共時性
大和内観研修所 真栄城 輝明
「共時性」という言葉をご存知だろうか。心理療法の世界では、西洋(スイス)の分析心理学者、C・G・ユング(1875~1961)によって名付けられて以来、俄(にわか)に注目されるようになった現象であるが、東洋(日本)では昔からごく日常的な出来事として人々の暮らしに出現してきた。たとえば、「噂をすれば影」「虫の知らせ」「以心伝心」「風の便り」「魂よく千里を行く」など、共時現象をあらわす言葉を挙げればキリがないほどである。
ところが、西洋に起こった科学技術の発展に伴い、東洋のこの国においても科学的な因果律によって説明できない現象は、知識人から軽視,乃至(ないし)は無視されるようになった。
なんと知識人の中には、一度もそれに気づいたことがないという人さえいる。私がそれを強く感じるようになったのは、カウンセリングや内観面接に従事するようになってからである。 しかし、その出来事を不用意に公言することは憚(はばか)られた。特に学会など客観的で科学的志向性の強い場においては控えてきた。けれども、今年の日本内観学会大会の場で初めて表題のテーマを発表してみた。というのも、これまでの内観面接をちょっと振り返るだけでも、実に多くの共時現象が思い出されるし、この学会でなら、現実の目に見える外の世界と目には見えないが、個人的な経験として実感される内的な世界はつながっている、とする共時性について話題に出来そうだと思ったからである。 実際、発表後に幾人かの方から「実は、私も同じ経験をしています」という声が寄せられた。
また、それだけでなく、体調を崩して学会に出席できなかったという会員は、学会の直後に電話を掛けてきて、「テーマに興味を引かれました。大会抄録集には、結果と考察は当日述べる、とありましたがどんな内容でしたか?」と電話口で質疑応答を求めてきたのである。改めて、このテーマの反響に驚かされることになった。
ところで、それと似た現象として「同時的(シンクロナス)」というのがあるが、両者は似て非なるものだ。オリンピックの場で日本女性のスイマーたちが活躍しているシンクロナイズドスイミングというのがある。水面の上下で同時的に繰り広げられる演技を競っているようであるが、そこでは「共時性(シンクロニシテイ)」が問われることはないだろう。日系米国人のユング派の精神科医、ジーン・シノダ・ボーレンは、「タオ心理学」(春秋社)の中で、「同時的な出来事というのは、単に同時に起こる出来事、同じ瞬間に起こる出来事のことです。」と述べ、その例として、人々が同じ時刻に同じコンサートホールに入ってゆく場面を挙げているが、共時現象については、神戸大会で発表した自験例を紹介しよう。 神戸の女性が今年の4月4日から一週間、内観にきた。内観後の翌日、まだ内観のリズムが残っていて、珍しく早くに目が覚めた。それで、早朝の散歩に出たら、小さな教会の扉が開いていたので、中に入ってみた。すると、「今年のイースター礼拝のメッセージは“誰を捜しているか”です。4月4日からの“主イエス・キリストの受難週をむかえ、4月11日に復活祭となりますので、ぜひ礼拝に」というチラシが目に入った。それを読んでハッとした。「ちょうど私の内観も4月4日からの一週間でした。私にとっては苦しい受難週でしたが、再生というか、復活するような、まさに誰かを自分の中に捜すような一週間でした。内観との不思議な縁を感じる出来事でした」と喜びに溢れた手紙が届いた。幼児期から虐待を受け、親を恨み、魂の死人と化していた女性が内観によって復活した出来事が見事に共時(シンクロ)していた。
NO.17
シリーズ【内観をめぐるはなし】第43回
いない いない ばあ
大和内観研修所 真栄城 輝明
「いない いない ばあ
にゃあにゃが ほらほら
いない いない・・・・」と黒猫が両手で顔を隠して登場する松谷みよ子の赤ちゃんの絵本をご存知だろうか、表題がそれである。日曜日の朝、早起きの子どもがパパのお膝で読んでもらうならこれ以上の絵本はない。日曜日の朝は、読み聞かせるパパもパジャマでリラックスしているので、子どもは嬉しい。
この絵本はママではなく、パパにピッタリの絵本なのだ。何となれば、ママは一日中いつでも側にいてくれるが、パパは普段、子どもが起きる前にお仕事に出て夜も遅く、いつだって家に「いない いない」の状態なので、日曜日の朝に「ばあ」と姿を現してくれただけで、子どもにすれば嬉しくて、繰り返しパパの読み聞かせをおねだりしたくなるのも無理はない。
何しろ、この絵本に登場するのは、黒猫と熊とネズミと狐の4匹だけなので、ちょっと頁をめくるとすぐに最終頁に至ってしまうから。 そして、子どもたちは何度聞いても飽きるどころか、ますます小さな瞳を輝かせ、興奮のあまり奇声まで発するのである。何とも不思議なこの絵本は内観面接の場面を連想させる。
内観を体験した人なら分かることだが、内観では面接者が繰り返し屏風(法座)を訪れる。そして、屏風を開けて「只今の時間、いつの頃の誰に対するご自分を調べていただきましたか?」と問いかけ、内観者の報告が済むと屏風を閉めて去っていく。およそ1日に8回前後それが繰り返される。このような面接風景を精神科医の成田善弘氏は「いない いない ばあ」のようだと指摘した。確か、1990年、日本内観学会が第13回目の大会を名古屋で開催したときの招待講演での話だ。成田氏には内観の体験や内観面接の経験がないにもかかわらず、ユニークで新鮮な指摘が印象に残った。
なるほど、内観面接の様子を観察していると「いない いない ばあ」を繰り返しているように見える。しかし、それは果たして外に見える「内観の型」だけのことだろうか。面接者として、「内観の内容」に接していると、内観者が報告する内容にこそ「いない いない ばあ」が繰り広げられているように思われる。
たとえば、統合失調症の母親を持つ青年が内観へきたときのことである。「入退院の繰り返しで母は殆ど家にいなかった。だから、お世話になったことはなかった」と自嘲気味に話していたのだが、ふた廻り目になって、「幻聴に悩まされながら、ブツブツと独り言を呟きながら台所に立って僕の弁当を作ってくれていました」と報告して後、泣き崩れてしまった。
また、84歳の老女は生活力のない夫の暴力から逃げるように離婚。女手ひとつで子どもたちは育て上げた。離婚から50年目に内観研修所を訪れた。“優しさがない”“愛情もない”“生活費も入れなかった”とないないづくしの夫に対する内観は、困難を極めた。ところが、新婚時代を振り返ったとき、夫に背を向けている自分の姿が浮かんだ。「いない いない」を続けてきたのは夫ではなく自分自身だったのである。娘の計らいで他界する前に再会を果たしたが、それは心から望んだものでなく、義理だけの看護であった。せめてその前に内観していれば、と悔やんだが後の祭りである。そんな心境を座談会の席で短歌にこめて披露してくれた。
亡き夫(つま)の 生地(せいち)に立ちて 今日(いま)目覚め
50年の月日 いかに詫びなん
「憎いだけで、夫の優しさが内観するまで気づかなかった。あの世でやり直したい」という心境はまさに「いない いない ばあ」である。
NO.16 【体験談】
「私は十七歳の女子高生です。」
私は、この言葉をこんなにも違和感なく言える日がくるなんて思ってもいませんでした。
と、言うのも、内観を受けるまで、「女子高生」であることに心底嫌気がさしていたからです。
内観に出会ったのは高校2年生の5月頃。
不登校になっている私を心配して、母が内観を探し出してくれたのです。
不登校になったのは高校1年生の11月から高校2年生の5月頃まででした。
ですが、小学校2年生の時から学校に行くことが辛かったので、そのころから不登校だったと言えるかも知れません。
不登校の他、中学3年生からはリストカットもしていましたし、ダイエット目的で拒食症にもなりました。
今思えば闇の中---しかも、奈落の底よりも、もっともっと深い暗闇で生きながら死んでいました。
それが、どうでしょう。
内観を受けて、少し時間をかけてですが、学校に行けるようになったではありませんか!
奈落の底よりも深~い闇の世界から一転、観音様の光が見えた感じです。(これが実際、内観の後半で観音様の光がさした様に思え、飛び跳ねてしまいました。)
「こんなにも世界は明るかったんだ!」…そんな気持ちでいっぱいでした。
今では、学校がなくてはつまらない私です。
こんなにも素晴らしい内観を見つけてくださった母に、とても感謝しています!
なにせ、「自分の未来なんてない」と思っていた私が、今では「未来は明るい!」と思えているのですから…。
NO.15
「心の時代」
竹中哲子(ひろさき親子内観研修所所長)
「心の時代」と呼ばれるようになって久しい。この時代、企業には産業カウンセラーが、そして、学校にはスクールカウンセラーが常駐する時代なのです。
しかし、この事態を喜ぶわけにはいきません。なぜならば、社会全体が病んでいる証拠なのですから。
私事で恐縮ですが、かつて、高校の教師時代に生徒相談を担当していた時のこと。カウンセリングの技術向上のために、アメリカまで行って研修を受けたことがあります。それによって確かに、知識は増えました。
けれども、増えた知識のぶんだけ理屈っぽくなっておりました。しかも、バスケット部の顧問としてインターハイ出場を目指して生徒達を指導していた頃は、成績をあげればあげるほど、高慢で鼻持ちならない教師になっておりました。
当たり前のことですが、そんな教師に生徒が心を開くわけはありません。
その慢心の教師を病が襲ったのです。生死をさまよう重病を患ってはじめて、自分自身を見つめざるを得なくなったのです。
病を得たことで体力に限界を感じたこともありますが、それ以上に教えるという仕事に行き詰まりを感じて、精神状態も最悪になり、ノイローゼ寸前でした。そんな私を見かねた知人が勧めてくれたのが「内観」だったのです。
それは、アメリカ生まれのカウンセリングとはまるで違うやり方でした。
具体的に言えば、部屋の片隅に屏風を立て、なんと1週間という期間、その中に籠もるのです。
そして、子どもの頃から現在に至る自分を徹底して振り返るのですが、ただ振り返るのではなく、相手の立場に立って自分を見つめるのです。たとえば、まず母親に対する自分について調べていくわけですが、母親に「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑を掛けたこと」の3点に絞って調べます。
わたしの内観体験についての詳細は紙面の都合で紹介できませんが、内観後にわたしはものの見方が一変しました。これまで「自分なりに生きてきた」という自負がありましたが、内観によって「多くの方々の恩恵を受けて生かされていること」に気づいただけでなく「命には限りがあること」をも知ったのです。
平成8年に本紙にも取り上げてもらった「心に刻むアウシュヴィッツ展」の開催を決断したのも内観による気づきのお陰でした。
奈良県の大和郡山市を発祥地とする「内観研修所」がヨーロッパはもとより世界各地に生まれるのを見て、青森県内にもほしいと思うようになりました。そこで、意を決し、教職を辞して「ひろさき親子内観研修所」の開設に踏み切ったのです。
それは平成3年のことでした。これからも「心の時代」にふさわしい仕事をしていきたいと思います。
【東奥日報2月13日・あすなろ交差点より転載しました。】
NO.14
中国から韓国、そして大和へ
大和内観研修所 真栄城 輝明
まるで演歌のタイトルのようであるが、表題のフレーズには、少しばかりの説明が要る。
昨年の2003年10月10日から13日まで、第1回国際内観療法学会(川原隆造会長)が鳥取で開催された際に、中国と韓国のゲストを迎えて晩餐会があった。その宴席で司会を務めることになった筆者は、皮切りの言葉に頭を痛めた。両国のゲストに配慮しつつ、しかも内観療法学会にふさわしい言葉を探そうと思ったからである。
そこで、会場へ向かうバスの中で考えようと思っていたのだが、話しかける人がいてそれどころではなかった。
そして、ついにバスは会場に到着してしまったというのに始めの言葉が見つからない。会場となったホテルのロビーで思案のさなかに背中を叩かれて振り向いたところ韓国からのゲストが筆者に挨拶してきた。
「カムサ ハムニ ダ」(ありがとう)。
晩餐会の招待状へのお礼であった。
「カムサ」は「感謝」の韓国訛りである。
今は韓国語になっているが、元々は中国語の漢字を輸入した言葉なのだ、と傍らの中国からのゲストに気を遣ってのことだと思うが、韓国のゲストがそう解説するのを聞きながら、棚から牡丹餅とはこのことだと思いつつ、その言葉をありがたく頂戴して、皮切りの挨拶にこう述べた。
「内観のキーワードの一つに『感謝』という言葉があります。それは、元々は中国語のようですが、韓国に輸入されて
『カムサ ハムニ ダ』という韓国の大切な日常語になりました。そして、その言葉は大和(唐時代の日本の異称)へきて、内観のキーワードになりました。中韓両国の皆様に感謝を込めてありがとう」と。
ところで、大和と言えば奈良の別称でもある。
そして、奈良という言葉はどうやら元々は韓国語で「国」という意味であり、かつて韓国からの帰化人が奈良に居を構えたとき、自国を思ってそう名付けたのだ、とその韓国のゲストは酒が入ってますます饒舌になった。
さて、宴たけなわというのに、おそらく学会中の宴会ということもあってか、ゲストの話題は、突然、学会調になった。
そして、「内観が目指す人間像はあるのですか?」などと訊いてくる。
まさにシンポジウム(饗宴)であった。
それには拙著「こころの不思議」(朱鷺書房)で述べたように「中国の達磨大師をかたどった『だるまさん』がそれです」と応えた。「たとえ人生の荒波に幾度となく倒れて転んでも起きあがることが大切」と説明し、納得して貰った。
その達磨からの連想が発展し、以前に読んだ「人麻呂の暗号」(新潮社)の中から筆者の興味を引いた内容を紹介した。
「だるまさんがころんだ」という遊びがある。
子どもの頃よく遊んだが、遊びの内容とかけ声がどうもしっくり来ないと感じていた。
ところが、その本を読んで目から鱗が落ちた。
中国禅宗の始祖、菩提達磨は面癖九年、壁に向かって九年間座し、悟った。座り放しの人が転ぶというのは変だ、と思っていたら、「コロオンダ」というのは韓国語では「歩いている」という意味だというではないか。
神妙に座禅を組んでいるはずの達磨が、急に歩き出したとしたらどうだろうか。誰だって驚かずにはいられない。それを見た人もびっくりであるが、見られた達磨の方だって驚いたに違いない。この遊びもまた韓国から大和に伝わってきたものだ、と著者の藤村由加氏は言う。
そこで話しは飛躍するが、内観のルーツもまた中国や韓国に違いないと思ってしまった。
そうやって考えると、今後、内観は親元の彼の国で相当に発展しそうな気がする。大いに楽しみである。何しろ、2005年には中国の上海で、そして、その翌年には、韓国のソウルで国際内観療法学会の開催が予定されているからである。
(本文は、やすら樹83号・シリーズ【内観をめぐるはなし】第40回より転載。)
NO.13
思春期の「こころ」
大和内観研修所 真栄城 輝明
創立百周年を迎える中学校で「地域懇談会」が開かれた。
毎年、夏休みを前に教師がチームを組んで地域へ出向き、保護者との交流を深めようという趣旨で始まった懇談会であったが、いつの頃からか、まるで思春期のこころが親たちに乗り移ったかのように、学校に対する不平、不満、苦情をぶつける会になってしまった。
「ほんとうは校長も廃止にしたいのですが、保護者が承知してくれないのです。」
会場となった公民館へ向かう車中で、今回、スクールカウンセラー(S・C)の同席を熱心に要請してきた教頭が胸の内を証した。そこで、伝統校が部外者で新参のS・Cを出席させたのは、教師とは違う視点に期待したからだ、という。
その懇談会は、保護者の代表が司会を務め、校長の挨拶で始まった。
そして、生徒指導部長から子どもたちの学校での様子や最近の出来事などが報告されて後、十人前後の小グループに分かれた。
その際に、各グループにはベテラン教師が配されて、保護者の質問に答えた。
「うちの子が中学に入った途端、親に口をきかなくなった」というような悩みはまだよい。
「他のクラスは席替えをよくやるのにうちのクラスがないのはどうして?」のような、本来クラス懇談会で問うべき発言が出ても、教師は驚かず、受け答えに窮することはまずない。あるいは、「野球部の朝練が近々なくなると聞いたのですが、本当ですか?」などという質問を部活の顧問ではない教師が受けたとしても、ちゃんと応えてしまうのは、職員会議のお陰である。学年別会議の他に各部会のそれがあり、さらには、全体の職員会議が教師間の連絡を密にしているからである。
ところが、職員会議で得た情報や資料で答えられるような質問だけならよいが、小グループの場で即答できない難問・奇問が出てくることがあって、それについては休憩を挟んで全体の懇談会に持ち越すことにしてある。束の間ではあるが、休憩は教師にとって必要であった。
というのは、休憩時間は全体会に備えての打ち合わせの時間になっていたからである。
グループ懇談の際に、S・Cは校長や教頭らと共に、各グループを巡回するように言われ、全体会では、応答者の席に着いていなければならない。質疑に備えてのことである。
「どうして今どき茶髪やルーズソックスがいけないんですか?」と質問したのは、自らも茶髪で厚化粧の母親であった。それには生徒指導部長が校則を持ち出して、その手の質問には慣れているらしく、そつなく答えて一件落着かに見えたが、「身だしなみは大切です」と話した言葉尻を掴まれ、別の母親から反撃がきた。
「生徒の身だしなみを言うなら、先生はどうなんですか?息子が女先生のスカートが短すぎて、気が散って勉強できない、と言っています。教頭先生、注意してください」ときた。そこへ茶髪の母親が間髪容れずに「そうだ!」と声を張り上げて、会場がざわついた。この時世に、たとえ上司であっても、部下のスカートの長短に口を出せば、セクハラである。
困惑している教頭に代わってS・Cが話しを引き取った。
そして、開口一番「お母さん、おめでとうございます!」と大袈裟に笑顔を作った。
相手はまるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
「思春期は性に目覚める時期。女の子に初潮が来るように、息子さんにもそれが来たようですよ。女先生のスカートだけでなく、街を歩く女性のスカートが気になって仕方がないはずです。」とはなしを思春期のこころ、とりわけ性の問題にフォーカスして答えたところ、鳩だけでなく、教頭の顔にも安堵の笑みがこぼれた。
(本文は、やすら樹82号・シリーズ【内観をめぐるはなし】第39回より転載しました。)
NO.12
内観で見つけた「ドーナツ」
竹谷 紗織(高校生)
私は、幼い頃から母親と父親が大嫌いでした。だから、自分自身のことも大嫌いでした。ついに、高校一年の冬に私は家出をしてしまいました。そのことが学校に知れ、無期停学を言い渡されたのです。これからの自分を思うと、どうしてよいかわからず、とても不安でした。
そんなとき、学校の先生が内観を勧めてくれました。雪国育ちの私は、奈良へは行ったことがないので、母と旅行するつもりで奈良行きを決めました。
しかし、母と乗った寝台列車の中は会話もなく、重苦しい空気に包まれて、窒息しそうでした。大和内観研修所に着いて、内観の説明を受けた後、母と私は別々の部屋に通されました。ひとりで使うには広すぎる和室の隅に屏風と座布団が置かれていました。その中で一週間もじっとしているのかと思うととても不安でした。
一日目、小学校一年生から三年生までの「母にお世話になったこと、母にして返したこと、そして、母に迷惑かけたこと」の三項目を調べました。私は、一生懸命に思い出しました。
その頃、両親は共働きだったので、母は夜の八時、九時まで帰らないことが多く、姉と弟と私は祖母の家で母の帰りを待ちました。幼い私はとてもさみしくて「仕事を辞めて!」と母に言ったことがあります。それでも辞めない母を見て、「私よりも仕事とお金が大切なんだ」と思うようになったのはその頃からでした。
しかし、内観してよく考えてみたら、両親が毎晩遅くまで働いているのは、他の誰でもない私たちのためだったんだ、ということがわかりました。弟が事故で死んでしまいました。
それからです、今まで以上に両親が過保護になりました。中学生になった私にはそれが煙たくて、嫌でした。自分の気持を親に話さないようになりました。高校生に入ってからは、いつも私を心配する父や母に背を向けて、裏切る行動に出て、それでまた自分を嫌いになっていく私でした。両親の気持ちは痛いほどわかっていました。
それを知らない振りして、両親の気持ちを踏みにじっている自分が情けなくて、しまいには自分自身に腹が立って、それをまた両親にぶつけるという悪循環を繰り返していました。
「どうしてそんな態度とるの?」と言われてもなんて答えてよいのかわかりませんでした。何しろ自分に対して怒っているのですから。
私は、畳半分の屏風の中で母を想いました。
「いつも見守ってくれた母。何があってもいてくれた母。感謝しきれぬ母。ありがとう。ありがとう。」
心の中でそれだけがこだまするようでした。私は、これまでの悪循環を断ち切らなければ、とそれだけを考えていました。
そのとき、ちょうど父に対する自分を調べていました。父がよくおみやげに買ってきてくれたドーナツが頭の中に浮かびました。
「これから私は、ドーナツの中に生きる」
それが私の出した答えでした。どういうことかと言いますと、自分が中心にいると人の考えていることが見えにくくなります。自分のスピードで回ってしまいます。だけど、ドーナツには中心がありません。だから、自分は“ドーナツの一部になる”のです。一部であれば、周りのスピードと同じように回ることができるし、相手の気持ちがわからなくなったら、ぐるっと回って相手のいた所に立つことができます。
さらに、私はいろいろなドーナツの一部であることにも気づきました。
家族、クラス、友達など、いろいろなドーナツの一部であることを思うと、私はとても嬉しくなります。確かに、ドーナツであることの責任は重い。だけど、相手の立場に立てば、相手の気持ちになったら、その人を悲しませるわけにはいきません。
あれから、四ヶ月になります。屏風の中で見つけたドーナツは今でも私の宝物です。
(本文は、2003年9月発行のやすら樹81号から転載しました)
NO.11
「さくら会」讃歌
さくら会顧問 真栄城 輝明
私の記憶さえ間違ってなければ、確か、「さくら会」が結成されたのは、ひがし春日井病院で断酒の集いが開始されて10年目のことであった。
その後、毎年、年1回の同窓会が企画され、今年の2000年は第8回目を数えることになった。
そして、1993年は中国の上海第二医科大学の王祖承教授が方貽儒助手を伴って、当院の断酒の集いを視察された年であるが、丁度、「さくら会」が第一回目の同窓会を開催した年でもあった。 翌年、私は中国の全国行為医学会に招かれて二度目の訪中を果したが、歓迎式のテーブルで、わが「さくら会」のことを話題にされ、「日本を象徴する名称ですね。病院というよりまるで学校のようでした。ぜひ、中国にも中国らしい断酒会を作りたい」と話されたことが、印象に残った。 「さくら」が春日井市の市花であることを説明したつもりであるが、中国からすれば日本を象徴する花だという印象が強かったようである。考えてみれば、無理ないことかも知れない。
それから3年後の1997年、上海市心理衛生学会の招きで三度目の訪中の機会が与えられた際に、
「ようやく、上海にも断酒会ができそうですよ」という話しを聞いた。
もし、何年かたって同窓会が結成されたとき、果してどんな名称になるのか、愉しみであるが、中国の断酒会と日本の断酒会の交流が実現すれば、これ以上の喜びはない。
思うに、21世紀は、これまで以上にますます国際化が活発になろう。
そうなると、わが「さくら会」ほどに国際交流にふさわしい名称もまた少ないのではないだろうか。 その意味でも、さくら会の同窓会のみなさんには、さらなるご精進を期待したい。
精進の中味はと言えば、まずは各人の断酒の継続である。そして、各人が断酒を継続する上で、仲間の存在が必要不可欠なわけだから「さくら会」が存続し、地域の断酒会に積極的に参加することである。毎年の同窓会出席を愉しみにしつつ、エールを送りたい。
(本文は、2000年発行のさくら会の同窓会誌に依頼された原稿に若干の加筆修正を加えました。)
NO.10
第11回内観療法ワークショップ津軽大会に参加して
モモの会(養護教諭の会): 中村ひろみ・中根幸江・木村みどり・石原典子・松永理佐
何年か前の受験シーズンの頃、A君という高校3年生の生徒が心に変調を来して不登校になり、その後学校へ来ると棒を振り回して廊下を走り回ったり、他の生徒を蹴ったり、小刀をポケットに忍ばせて来たりして、学校中が彼に巻き込まれた状態になって、あげくの果てにパトカーを呼ぶ騒ぎまで発展したことがありました。A君の家庭の色々な事情や、学校が他の生徒の安全を考えた結果このようになってしまったわけなのです。
この出来事をとおして、A君に対して申し分けない気持ちと自分の無力さを痛切と感じるとともに何か学校で生徒の問題で困った時にすぐ相談できる人が欲しい、そして生徒にとって一番適切な対応の仕方を助言できるような力量を見に付けたいと思うようになりました。
そして、同じ市内の養護教諭の友人に「勉強を始めない?」と言ったところ、その学校の友人にひがし春日井病院に通院している生徒がいるというので、その生徒の主治医の相談を持ちかけてみて欲しいと頼んだところ、真栄城先生を顧問として紹介してくださったのです。それから、春日井市内の小・中・高・養護学校の養護教諭に呼びかけて「モモの会」ができました。現在12名のメンバーで活動しています。「モモの会」は、今年の3月で5年目を迎えますが、毎月1回の事例研究会と毎年夏にはテーマを決めて、外部からシンポジストを迎え、私たちメンバーもシンポジストになり、コーディネーターを真栄城先生にお願いしてシンポジウムを開いています。
1回目のテーマは「思春期における性の問題を考える」、2回目は「子どもたちと嗜癖問題」、
3回目は「思春期の問題行動をめぐって」という内容でした。このようなことができたのも真栄城先生の支えがあったからこそと思っています。「モモ」という名前は、モモのところに来て話を聴いて貰うだけで人々は気持ちが晴れ晴れし、今まで喧嘩していた相手とさえ仲直りができてしまうという、ミヒァエル・エンデの小説の主人公「モモ」の「不思議な聴く力」にあやかりたいと思ってつけた名前です。
「モモの会」には、当初のうちから「ひろさき親子内観研修所」の所長である竹中さんがメンバーのおひとりとして加わっていらっしゃいます。本当は竹中先生とお呼びしなければならないのですが私たちはつい「ソフィーさん」、または「竹中さん」と呼ぶ習慣になってしまいました。今回のワークショップに参加しようと思ったのも私たちが、弘前からの温かい竹中さんの「気」をずっと感じていたということがあったように思います。
さて、ワークショップに参加したのは5名でしたが、以下はその感想です。
Aコースでは、三木先生の「種は実った」というお話にとても感動しました。四年前に、吉本キヌ子先生のもとで集中月間を受けたことがある仲間の一人は、ちょうどその時の同室で内観をしていた人が急に席を外して帰ってしまうという出来事に遭遇し、心配になって吉本キヌ子先生に「大丈夫でしょうか?」とお尋ねしたところ「まだ、時期ではなかったのですね。本人の中でいずれその時が来ますよ」というお答が返ってきたということを思い出しました。保健室にやって来る生徒たちの中にも「このままで、果たして世の中でやって行けるのかしら?」という、心配な子どもたちもいます。三木先生のお話を聴きながら生徒たちに対してもその時が来る事を信じて焦ることなく生徒を長い長い目で見守っていけばいいのだという気持ちになることができました。また、「内観Q&A」に参加して思ったのは、私たちが「内観を受けさせたいな」と思っても、なかなか学校現場ではできません。フロアの「学校現場で何か行なえることはないでしょうか?」という質問に対し三木先生からは記録内観について、本山先生からはホームルーム内観についての紹介、また、フロアの方からは自分史を書かせたりしながら記録内観を実践しているという報告があったことで「内観研修所に行って集中内観をやるだけが内観ではないのだ」ということに気付いたことでした。学校に戻ってから、早速、保護者に内観の本を紹介してみたり、母親との関係に問題をもった生徒に記録内観をしてみて良い結果が得られたこともありました。
Bコースでは竹元先生の「医療における内観の有効性」、「内観療法の効果(気づきと変容)」、「内観療法の基本的治癒規制」などについて勉強させて頂きました。専門的ではありましたが、「内観」から抱くイメージは「涙」と「浪花節」ですが、内観療法は「自己の尊厳」にアプローチして行って、今までに気付かなかった深い深いところにある「命の源泉に辿って行くことなのだ」と理解することができました。また一方で、この「自己の尊厳」ということを中心に考えた時に、例えばアルコール依存症の夫のことで長い間苦しんできた妻の場合に当てはめるとどうなるのかと考えました。「もう、こんな夫と一緒にやっていけないから別れる」と決意して別れるのは「自己の尊厳」のためなのか、単なる「自己犠牲」できない「エゴイスト」なのか…と。
また、病院での集中内観後のテープで最も心に残ったのは、私生児として生まれた女子中学生の清らかな声と言葉でした。多分、テープの向こう側にいる彼女は金髪でどぎつい化粧をしているかもしれません。しかし、「お母さんが私を私生児として産んでくれなかったら、おばさんに会うこともなかった」と言う、澄んだ声を聴いて「これって、本当に中学生の言葉なの?」と驚かされたのです。命の源泉から響いてくる声というものでしょうか。この澄んだ声に私自身の心が洗われたような気がしました。保健室でもこんな澄んだ声が聴ければ…と思います。
初めて目にした、薄紅色のりんごの林を通り抜けて入った会場では、スタッフの方が、台風の晩に風で落ちないようにと見て回られたという「祝・内観ワークショップ」と色抜きされたりんごに迎えられ、そして帰る時には、またまたおいしいりんごをお土産に頂いて、弘前での二日間は薄紅色の愛情に包まれていたような感じでした。ありがとうございました。(文責 中村ひろみ)
(本文は、2000,7,1発行の内観ニュース第24号に掲載された『第11回内観療法ワークショップに参加して』と題して書かれたワークショップ印象記の元原稿であり、それをそのまま載せたものです。)
NO.9
病院の臨床心理士①
ひがし春日井病院 真栄城輝明
人生相談回答者への憧れ
心理の仕事を紹介して、それが本になる時代になったという。世の中、こころの時代なのであろう。
筆者は医療機関に勤める臨床心理士である。高校生になって間もない頃、ラジオの人生相談という番組を通して心理学という学問があることを知った。回答者は心理学出身の精神分析家と紹介されていた。大学の心理学科へ入ればその回答者のような心理の仕事ができるのか、と至極単純に考えたことを友人に話し、担任に相談したところ、一笑に付されてしまったことを覚えている。まだ、心理学という学問が一般に知られていない30余年前の話である。それでも単純さが幸いしてか、例の回答者への憧れをエネルギーにして、迷うことなく心理学科を選択した。そして、後日談であるが、筆者の進路を決心させてくれたそのラジオの心理学者が目の前に現れたのである。心理臨床学会の場で筆者が研究発表をした時のことであるが、フロア-からの質疑が活発に飛び交い、そのなかにラジオで聞き覚えた例の声を聞いた時、憧れが現実になったことをしみじみと感じたものである。
広がりつつある職域
日本臨床心理士資格認定協会から認定された臨床心理士は1993年に3700名に達したとことに驚いていたら、わずか7年後の2000年には倍増の7000名を超えたようなのである。
しかし、一口に臨床心理士といってもその職種は多彩である。筆者のような病院臨床に携わっている臨床心理士が全国に何人いるのか、その実数を示した資料を目にしたことがないのではっきりはわからないが、決して少ない人数ではないことだけは確かである。というのも、いまや精神科だけでなく、心療内科はもとより小児科・外科・産婦人科に及んで臨床心理士が必要とされ、その職域を広げているからである。
ただし、同じ医療という場であっても、仕事の内容はさまざまである。ここでは、筆者の勤める機関(内科と精神科を併設)における臨床心理士としての仕事内容を紹介しよう。
心理療法などの仕事内容
筆者の勤務する病院は名古屋のベッドタウン、春日井市に開設されて18年を迎えるが、歴史の古い大きな病院と違って、臨床心理という新しい職種を受け入れるにあたって、抵抗どころかきわめて柔軟かつスムーズがあった。
このことからの教訓は、歴史と伝統は大切かも知れないが、新しいものが受け入れられるには、それなりの柔軟性が必要だということである。その柔軟性に支えられて臨床心理士としての心理の仕事が形を成していったわけであるが、それを羅列的に示せば、およそ以下のようである。
①心理療法は臨床心理士のメインになる仕事である。当院は内科と精神科の外来と並んで心理・教育相談の外来を開いており、内科からは主に心身症が、精神科からは神経症のクライエント(患者)が依頼されて心理療法室を訪れる。心理療法の内容について詳述するほどの紙面はないので省略するが、個人療法の他に家族療法や集団療法の形態をとって行われている。対象は子どもから成人、そして老人まで及んでいる。
②心理検査は必要に応じて適宜施行するが、心理診断の補助として、あるいはクライエントのパーソナリティを理解する参考資料に、さらには心理療法の効果判定などに用いる。次にあげる研究の資料にも役立っている。
③研究は臨床心理士として自らを成長させてゆくことはもとより、そのことがひいてはクライエントのために役立つという意味で、必要不可欠な仕事と思われる。また、他職種との協同研究は、それによって職種間の相互理解を深めるという利点がある。
④何といっても心理学は人間関係の学である。職場内の人間関係の仕事を担当するところ、といえば人事部があるが、専門知識を活かして人事部と連携することも重要な仕事として心理に期待されている。たとえば、具体的には採用時に立ち会って、面接のほかに性格検査などの心理検査を実施し、判定の参考資料を提供する仕事がある。
⑤時代は、ますます心の問題が深刻になっている。教育の場で発生している不登校や非行、いじめによる自殺など、心の問題を抜きにしては解決が困難になってきた。
そこで、学校には教師以外の心の専門家が必要になって、文部科学省は平成13年度から全国の中学校にスクールカウンセラーの派遣を制度化するようである。
そこで、心の専門家である臨床心理士がスクールカウンセラーとしての仕事を担うことになった。とりわけ、病院の臨床心理士には、多彩で豊富な臨床経験に基づいた対応が期待されており、学校現場で発生する病理を伴った問題にその技量を発揮している。
(本文は、「心理の仕事」朱鷺書房より抜粋したものです。)
NO.8
【巻頭言】
「ミレニアム同期生会」の
文集発刊に寄せて
真栄城 輝明
何とも奇妙な、しかし、この時代にふさわしいと言えばそうなのであるが、表題のような同期生会が開催されるというので、僕は、35年も前に巣立った中学校の仲間たちと会える日が待ち遠しくて、当日の仕事を早々とキャンセルしたほどである。予定表によると、京都を経て琵琶湖まで足をのばし、2泊3日にわたって旧交を温めることになっているが、おそらくミレニアムという歴史の節目がそうさせたのであろうか。いや、それよりも、一昨年の夏、母校の佐敷中学校の創立50周年を祝って18期生が決起したことが大きかった。その時の記念誌によれば、ゴルフ仲間のかつての腕白坊主たちが言い出し、あとはかつての乙女たちが奮闘した結果、周知のような記念事業を見事に成功させてしまった。そして、収益金を母校のために寄付したことはみんなの記憶に新しいはずである。全く未経験の事業を、しかも同期生で結成した準備委員会が、約半年をかけて成し遂げたことの意義は大きかった。
なぜならば、そのことによってわが18期生が結束することになり、そのときの絆がエネルギーとなって企画されたのが今回のミレニアム同期生会なのだから。そのミレニアム同期生会に参加して驚いたことがある。沖縄でずっと暮らしている女性たちよりも、本土に嫁いできた女性たちの方がふるさとの沖縄料理に強い愛着をもっているらしく日頃からよく作っているとのこと、そして、男女とも本土在住者の方が沖縄民謡をこよなく愛してよく歌い、サンシン教室などに通い、宴の席でも最後の最後までカチャーシーを心ゆくまで踊って見せた。その姿に熱くなるものを感じてしまったが、確かに「ふるさとは遠きにありて想うもの」のようである。
ところで、海の向こうの米国では今、インターネットを活用しての家系図づくりが盛んらしく、米家系図協会によると、米国民の6割が何らかの形で自分の先祖を調べているという。そして、産経新聞のコラムに紹介されたオレゴン州のローズさんは、毎日3時間ほどを調査に充て、英国にまでさかのぼるのが目標らしい。
ふるさとへの想いは、世界に共通なのだ。
ひとは過去を失ったり、ふるさとと絶縁したとき「自分は一体何者だろうか」という存在の不安に陥ることになる。
今回のミレニアム同期生会は、31名が夜更けまで(中には二晩も夜を徹して)語り合い、互いに共通の過去を分かち合った。
そして、自分自身でさえ忘れていた過去の自分が友の語るエピソードによって甦った。
そう、みんなでタイムスリップし、佐中時代の自分に出会ったのである。それによって自分の存在を確認し、癒された。僕の仕事にしている心理療法の立場から言えば、まさにグループカウンセリングであり、集団内観療法の中の「語らい内観」と名付けられたそれに近いものがあった。
今回、ひとつになったみんなの気持ちを忘却の彼方に消し去ってしまうのは惜しい。
そこで提案されたのが「ミレニアム同期生会の文集を作ろう」であった。
おそらく飛行機の中でもそうであったに違いないが、貸し切ったバスやホテルの宴会場、最後は宿泊の部屋に戻ってからも中学時代の思い出話は尽きることがなかった。言葉を変えれば、まるでジグソーパズルのピース(一片)を各人が自分の記憶から持ち寄って共通のアルバムを完成させようとする共同作業のようでもあった。それは、色で言えばセピア、味で言えばシークヮーサー(沖縄特産のビタミンCたっぷりの果物)であった。
というわけで、今回の文集には、一人ひとりの感激冷めやらぬ思いが綴られている。なかにはあまりにも、感動が強すぎて、その心あまりて言葉足らずの凝縮された短文になってしまったひと、あるいはそれとは逆に、想いを綴っているうちに詳細で綿密な紀行文さながらの文章を寄せたひとなど、それぞれいたりして、どっちも感激だけは充分伝わってきた。
どうやら僕もあの日の感動が抑えられず、巻頭言にしてはつい長くなってしまった。
最後に、この文集がこのたびのミレニアム同期生会に参加した人はもとより、今回は都合がつかず参加できなかった人をも含めて、われわれ佐中18期生の絆をいっそうに深めてくれることを願っているが、そうなることは間違いないだろう。
(本文は、沖縄県佐敷町立佐敷中学校第18期生同窓会文集より巻頭言を抜粋したものです。)
NO.7
内観ニュース
【教育講演】
内観療法に向かわせるものは何か
―人間学的考察の試み―
村田忠良博士の教育講演を聴いて
第25回日本内観学会大会(太田耕平大会長)は、平成14年5月16~18日、北海道大学学術交流会館に千名を超える参加者を集めて盛会のなかで開催された。そこで、最終日には教育講演が行なわれ、講師は、イタリアへの留学経験をもち、昭和四十五年には、彼国からメリット勲章の勳三等を授与された村田忠良博士であった。
「私には内観療法というものが不思議でならないのです」
村田博士は、講演のはじめをこう切り出した。その理由として「なぜ、内因性精神病やアルコール依存症、あるいは思春期の挫折症候群とか生活態度異常といった精神科領域のさまざまな病態にまで内観療法が立ち向かえるのか不思議です」と素朴な疑問を率直に述べた後に、表題の講演に入って行った。
なるほど、身体拘束性が強く、修行的色彩を帯びた内観療法を自ら進んで受療する患者さんがいることに、さらには繰り返し幾度となく内観に誘う臨床現場を目撃し、驚き、不思議に思ったようなのであるが、それが機縁になって、今回の人間学的考察は生まれている。 「私の内観療法への知識は太田先生の著作と札幌太田病院で垣間見た内観臨床の場面に限られたものですが…」と、大家にしては、否、大家だからこそ率直に自身の内観療法への不案内を開示した上で、四十五年という精神科臨床医としての豊富な経験を背景にした思索(スペキュレイション)を語られた。
講演に先だって、村田博士が敬虔なクリスチャンであることは司会の長島正博先生によって紹介されたが、悩み多き青春時代を過ごし、一方で座禅にも通じ、哲学書を友として、十九歳のとき、迷いの渦中でゲーテのフアウストに出合ったくだりは、村田人間学の萌芽が青春期にさかのぼって感じられた。
「人間は努力する限り迷うものだ」
フアウストのなかでその言葉に出合った村田青年は、心の底からこみ上げてくる痛快さを抑えることができなかった。
ところが、思索の青年は、そこにとどまることなく、「その後、しばらくは、なぜそうなのか考え続けておりました」という。そして、導き出した結論はこうである。
すなわち、すべての「生」あるものは、ひたすら「死」へ向かい、形ある「有」は「無」へ突き進んでいる。ところが、「努力」とは「無」から「有」へ向かう、いわゆるベクトルでいえば逆方向である。その両者の逆ベクトルの重なりが「迷い」なのだ、と当時の青年哲学徒は一つの結論を得た心地であった。
その後、臨床精神科医としてのスタートを切った青年医師は、アルコール臨床に取り組むことになった。臨床の現場に携わったことは、ちょうど地に足が着いたときのような、思索に深まりと幅をもたらしたように思われる。
「私がアルコール依存症の患者さんやその家族から学んだことは大きかった」と述べつつ、「イタリアに留学した日本人は多いけど、彼国の患者さんを診察した日本人医者は私がはじめてだったようですね」と語るとき、臨床医であることへのこだわりと誇りが感じられる。 その誇りは、昭和五十七年に東京で開催されたシンポジウムに仏教学者の玉城康四郎氏をはじめ著名な学者と並んで出席したことを話題にしたときの「私以外はみな一流大学の先生方でしたが、どういうわけか一介の臨床医の私がはいっていました」という言葉に最もよく表れている。
シンポジウムは一年前に依頼があり、「生命とは何か」というテーマが宿題として出され、一年がかりで準備して臨んだ。 「私は、人間の生命と動物のそれはどう違うのか、精神科臨床を通して学んだことを基に“生命エネルギー仮説”なるものを提示しました」というその仮説とは、以下のようである。
村田博士は、生命エネルギーには四つの側面があると言う。
①身体的生命エネルギー
②精神的生命エネルギー
③社会的生命エネルギー
④宗教的(霊的)生命エネルギー
たとえば、アルコール依存症の患者は、連続飲酒によって体を壊し、精神的にも滅入っていて、無断欠勤が続いたために職業生命まで危なくなっているとき、①②③が減衰している状態であり、その三つのエネルギーがゼロになった状態が「死」だという。そのとき、④の宗教的エネルギーは最高潮に達する。
そのあたりの説明は、講演時の語り口そのままを伝えた方が分かりやすく、味わいがあるのでそうしよう。
「不思議なことに、アルコール依存症から回復して断酒を続けている私の患者さんに“何がきっかけで酒を止める気になりましたか?”と訊いても大抵、“わからない”という答えが返ってきます。なかには、“これ以上の飲むと命が危ないと先生に言われたので止めました”と言う人がいますが、それは嘘です。私は三年も前からそう言い続けていたのですが、止めなかったからです。
けれども、断酒会の仲間は、“あの人はどん底に陥ったから断酒に踏み切った”と言います。私は3つの生命エネルギーが減衰し、限りなくゼロに近くなった状態がどん底なのだと思います。そのとき、霊的生命エネルギーが昂まって、いわゆる回心、コンバージョンですね、それを私は、生活座標軸の変換と呼んでいますが、人間性を取り戻すのだと思います」 そして、村田先生はこうも言う。「断酒して人格が向上するのではなく、生活座標軸の変換があって、人格が向上するのです」と。かつてイタリア留学の動機を訊かれて「ルネッサンスがなぜフィレンツェで起こったのか、知りたかった」ことを挙げたようであるが、ルネッサンスを語る口調は情熱を帯びてくる。
「ルネッサンスを文芸復興と訳す人がいるが、あれは大間違いですね。あれは、人間性の復権、あるいは再生ですよね」と言った後に、「アルコール依存症の患者さんは酒の奴隷です。その人たちが断酒をすることによって人間性の復権を勝ち取っている。だから、私は、断酒会を現代ルネッサンス人の集まり、とそう呼んでいるんです」
この言葉には臨床家・村田医師の病める者への畏敬と限りない愛着を感じさせる。体を病み、精神まで不安定になり、社会からも見離されてしまったアルコール依存症の患者さんたちが、内観療法によって回心し、再生した姿を見せたとき、村田先生は「彼らを内観療法へ向かわせるものは何か」と呟いたにちがいない。
講演の締めくくりは、内観療法へのエールであった。
「21世紀は再び精神性の時代になるだろう。でなければ、21世紀はありえない」と語ったフランスの哲学者・アンドレ・マールローの言葉を紹介した上で、「21世紀の科学は、心を前頭葉の働きとして解明してくれるかもしれないが、それはしかし、何か冷たく感じられる。何かもっとしっとりとした心の解明を、私は内観療法に期待したい」と述べた。
講演を聴いたのは五月。すでに3ヶ月を過ぎたはずなのに、筆者の心の中では、いまなお村田博士の言葉が残響音のように鳴り続けている。それほど感動的な講演であった。
(文責・真栄城輝明)
NO.6
読書案内
「心理臨床からみた心のふしぎ-内観をめぐる話-」 真栄城輝明著 発行 朱鷺書房 1.600円
市川 富雄(やすら樹編集長)
著者は改めて記すまでもなく、目下「やすら樹」に「内観をめぐる話」を連載中の臨床心理士で、長年つとめた病院臨床の場から、2000年の3月に大和郡山の研修所長に就任され、その節目に当たって刊行されたのが本書です。
内容は、Ⅰ心に聴く-子どもに導かれて- Ⅱ心のきずな Ⅲアルコール依存症と共に Ⅳ心のふしぎで、(他に詳細な「吉本伊信年譜」)4章にわたって収められた36の論考には、それぞれに現代の問題意識がこめられていて、極めて深い味わいがあります。
まず、巻頭の「私の心理臨床」では、「どういうわけか、私は学生の頃から子どもが好きだった」のに、教授に連れて行かれた最初の勤務先の病院で、院長から「アルコール依存症の担当も」と依頼され、「渋々、了承する」ことになってしまうのです。実にこの瞬間から著者のアルコール症者と共に歩む長くて深い内観の道が始まったわけで、人生ドラマの開幕を見るようです。
次々と読み進むうちに、アルコール臨床の場に腰を据えた上で、家族・子ども・教育などの領域に積極的に関与していく著者の姿が現れていきます。ことに中学校で「道徳」の授業に三たび取り組み、「内観的授業」を展開するなど、ただただ感嘆するほかはありません。(「家族関係のふしぎ」)
また、著者の子どもたちへの優しさを表す次のような文も見られます。「少年野球のコーチを引き受けたとき、コーチとしての私の役目は、ちょっとでもファインプレーをしたり、捕れなかったボールが捕れたとき、子どもたちのお尻をポンと叩いてやることだと考えた。一人残らずチーム全員のお尻をポンと叩くことが、コーチとしての私のささやかな夢なのである。」(『面接者』考)
そして続けて、コーチの役割として「内観の面接者と同じことをしてきた」と述べ、内観面接者は「相手の悲しみを共に悲しみ、喜びを共に喜ぶことにエネルギーを注ぐ専門家」であって、「そのやり方を心理学は『共感』と呼んでいる」と記しています。
「共感」ということは本書の随所にふれられていて、全巻を流れる主旋律と言えます。そして共感は、面接者と内観者、治療者と患者関係の中だけでなく、断酒会の場で、仲間同志の間に発生する共感もあり、その相互治癒力の効力も紹介されています。(「共感について」)
一般にアルコール症者は「自己愛人間」と言われていますが、「周囲の愛情を人一倍求める彼ら、自己愛人間は誰よりも自分自身から愛されねばならない」として、そのために、まず自分自身との対話、そして内観療法が有効であるとした「続・断酒人間考」は著者が到達した深い人間洞察の精華でありましょう。本書の後に続く『内観療法論考』(「あとがき」参照)の完成を節に期待したいと思います。
(本文は、平成13年7月発行のやすら樹68号より転載しました。)
NO.5
少 年 の 涙
「こいつがオレを階段から突き落とそうとしたからだ!」と大きな叫び声が長い廊下を伝わって職員室まで響いた。淋太は、学校でも名うてのワルで、この4月に3年生になったが2年生の夏休みを境に髪を染め、夜間に徘徊するようになった。午前中はギリギリまで寝ているらしく、いつも給食だけが目当てで登校しており、授業には一切出てこない。
淋太が「こいつ」呼ばわりして胸ぐらをつかんでいるのは、今年から教師になった虫下先生である。この頃の中学校では生徒が教師に殴りかかる光景は、珍しくない。その時は、しかし、通りがかった別の体育教師がふたりで、淋太を背後から取り押さえたので事なきを得たが、それでは彼の気持ちが収まらなかった。淋太は大声でわめきちらし、階段の踊り場まできてなお必死の抵抗を体中で表現して見せた。
*
淋太が教室に入らないのは、身なりが校則に違反しているからである。「髪を黒く染め直し、ピアスをはずさない限り、教室に入ってはいけない」と担任や生徒指導の先生に注意された時、「そんなら入らんわ!」と突っ張った翌日から問題行動がエスカレートしていった。
「今日も、後輩を呼びつけて恐喝したようです」「トイレにタバコの吸い殻が増えました」「シンナーもやっているらしい」。学年会議ではらちがあかず、職員会議に持ち越された。そして、苦肉の策として「淋太係」を置くことになった。男性教師には、空き時間に淋太の見張り役が割り当てられた。授業中、教室の外を徘徊する彼に付いて廻り、見張っていることが任務である。その日の4時限目は、虫下先生が担当になっていた。階段を下りる淋太の後ろに付いて歩いていたら、いきなり振り返って胸ぐらを掴んで冒頭のような怒声を浴びせてきたのである。
*
文部科学省は平成十三年度からスクールカウンセラー(SC)の制度化を決定。いずれは全国の中学校へ配置する計画らしい。淋太のように教師不信に陥った生徒には、成績評価に関わらないSCのような存在は貴重である。
どこにも行き場がなくなった時、淋太は決まってカウンセリング室にやってきた。彼はその部屋の絨毯(じゅうたん)の肌触りが気に入っていた。横になってほお杖をつきながら話してもとがめるどころか、真剣に自分の話に耳を傾けてくれるSCの励子先生だけには気を許し、何でも話した。
「オレ、学校好きだよ。でも授業は分からんし嫌いだ。遅れてきた時、ナポレオン(担任のあだ名)に見つかると怒鳴られるけど、アイツだけだよオレの名前を呼んでくれるのは。」
「他の先生方は?」と怪訝(けげん)な声は励子先生。
「呼ばんよ、みんなオレを敬遠してるんだ。さっきの新米(虫下先生)が廊下の向こうから歩いてきたのを見て、そのままくれば職員室の前で会いそうだった。オレ、挨拶しようと思っていたら、途中でくるっと背中を向けて逃げたんだぞ。」
淋太は、その時の行動をゼスチャー入りで再現してみせた。
「そう、そうだったの、肩透かしを食らったってわけね」
「うん、まあそういうことかな」
励子先生には、両親離婚の生い立ちを背負う少年の傷付いた寂しさが痛い程分かった。
「虫下先生はあなたのこと突き落としてないと言った。私も直接きいてみたけど嘘をついているようには思えなかったわ」と言った後に、「でも、あなたの気持ちも分かるわ、多分、虫下先生がくるっと背中を向けた時、無視されたと思って、まるで階段から突き落とされたように感じたんだよね」 励子先生は、その時、少年の眼に光って落ちるものを見逃さなかった。
(本文は、S中学校のカウンセリングだよりに掲載された一文の抜粋ですが、ある事例をヒントに創作されたものです。文責は、真栄城輝明にあります。)
NO.4
「カウンセリング」って?
真栄城 輝明(臨床心理士)
カウセリングと学校
愛知県の中学校で、いじめを苦にして自殺した中学生の事件は、今でも記憶に新しい。その事件をきっかけに文部省は、「スクールカウンセラー事業」を平成7年から開始しており、まず、全国の小・中・高の一部へ派遣してきた。
そして、その事業がいよいよ平成13年度から制度化された。六年間の試験期間を経ての制度化であるが、いよいよ本格的に全国の公立学校へ「スクールカウンセラー」が派遣されることになった。
何故そうなったのか、この国の学校が危機を迎えている。教えることを使命にしてきた学校で授業が成り立たない。そこで、教えるだけではなくカウンセリングが学校に持ち込まれた。学校を援助するためである。
ところで、臨床心理学の中から生まれたカウンセリングは、アメリカにおいて、二つの世界大戦を通して発展してきたがわが国では1950年代にアメリカの講師団によるカウンセリング研修会が開催されたことに始まる。
あれから半世紀、大学の一部の研究者しか知らなかったカウンセリングが、今や、社会の脚光を浴びる時代になった。70年代後半から増加してきた不登校や80年前後の校内暴力、そして、それに続くいじめ問題がカウンセリングブームの背景をなしている。
しかし、この事態を喜べまい。ことは社会全体が病んでいることの顕れなのだから。
カウンセリングブーム
とある小学校での一場面である。新しく赴任してきたスクールカウンセラーが校庭を走り回っている生徒に声をかけて、何やら聞いている。
「ねえ、きみ、カウンセラーって知ってる?」
立ち止まったのは6年生の男の子。一緒に遊んでいた仲間たちも振り返って、すぐに集まってきた。子どもはいつでもみんな、好奇心が旺盛なのである。
「知ってるよ!」
直接声をかけられた男の子が答える。その子が次を話す前に、別の子が口を挾んだ。
「だってゲームに出てくるもん」
「そう、そう」と、他の子どもたちが口を揃える。そして、カウンセラーが何たるかを見事に説明してくれたのは、はじめに立ち止まった背の高い少年であった。
「元気がないとき、そいつのところへ行くとパワーアップするんだ」
今や、カウンセラーは、子どもたちのゲームの世界にまで登場するようになったようである。
そう、カウンセリングがブームなのだ。一昔前には考えられなかったことであるが、大学には心理学部に臨床心理学科まで設置され、受験生が殺到するという時代なのである。
そして、なんと心理臨床学会の会員が一万人を超えたというのである。
子どもとウサギとカウンセラー
カウンセラーと6年生のやりとりを目撃していた1年生の女の子が、次の放課の時間に、息を切らせてカウンセリングルームに駆け込んできた。
「ウサギさんが元気ないの、悲しそうなの、一緒にきて!」
カウンセラーが行けば、ウサギもパワーアップすると思ったのであろうか、女の子は必死の形相で懇願。そこで、カウンセラーは、女の子に手を引かれて飼育小屋に向かった。
行ってみると、確かにウサギの眼は真っ赤であった。
「ウサギさん、何がそんなに悲しいの?」と、女の子が声を掛けたのは、親ウサギではなく、片隅の子ウサギに対してであるが、ひとりぽっちが悲しそうに見えたのであろう。
「お父さんとお母さんが喧嘩でもしたの?」と、女の子はどこまでも優しいのである。
そして、黙っている子ウサギに、昨夜、ウサギの父親が酒に酔って暴れたのではないか、母親が殴られて青あざでも作ったのではないか、などと問いかけた。寄り添う人がいるだけで、子どもは子ウサギに自分を重ねて励まし、元気を回復した。その姿を見ていたカウンセラーは、父親のアルコール依存症の回復を援助するために家族への介入を計画。
それにしても、ひたすら傾聴の子ウサギこそ名カウンセラー。そして、子どもは親の鏡、社会の縮図。子どもたちの荒れた姿は、大人の姿を映してのことなのである。
(本文は、愛知県小牧市読売センター桃花台発行のよみうりエリア通信2001年7月第45号の記事より抜粋したものです。)
NO.3
「こころ」の絆
将来を悩むわたしにプレゼント
「どこさも行ぐな」祖母の一言
遠藤美智(高校三年)
周知のように、内観には家族関係を重視する思想がある。たとえば、現在抱えている問題は、自分自身と親との関係を見つめなおすことによって解決される、という思想である。
前掲の短歌は、東洋大学が全国の中学生から大学生を対象に募集した短歌の一部であり、天声人語に紹介されているのを抜き出してみた。
就職か進学かは定かでないが、人生の岐路にきて、家を出ようか、あるいはそのまま家に居ようか、と迷っている高校生の孫に対して、「どこさも行ぐな」と祖母が放った一言で、迷いが吹っ切れたというのである。
ひとは自立しようとする時、誰しも不安に襲われる。そんな時、自分を見守る家族の愛を再確認したくなる。 そうすることで不安を乗り越えることができるからである。家族の愛を確認する言葉としてお国訛りがあるが、不和が頂点に達していた家族が家族療法を繰り返しているうちに、お国訛りが飛び交うようになる。
親子や夫婦の関係に変化が訪れた証拠である。
お国訛りと内観
前掲の歌のポイントは、「どこさも行ぐな」という祖母の東北訛にある。つまり、標準語ではない日常のお国訛りを使ったことで、祖母と孫の情感が読み手にまで伝わってくるからである。
「どこさも行ぐな」と言われて少女は、ほっとしただけでなく嬉しかった。
なぜならば、それは私の故郷である沖縄の方言にして言えば、「かなさんどー」ということであり、それを翻訳調に標準語にすれば、「誰が何と言ってもあなたは我が家の愛しい子だ」ということになるからである。
すなわち、その家族語は祖母から孫への愛のメッセージだったのである。
内観の特徴は、愛の発見だと言われている。
そう言えば、内観面接に携わっていると、内観が深まれば深まるほど、内観者の言葉に変化がみられるように思う。
標準語が知らぬ間にお国訛りに変化してしまうのは、内観者にとって自分の内面をうまく伝えようとすれば、それは自然なことであろう。
このように、 お国訛りにはひとの「こころ」を癒すはたらきがある。
(本文は、「やすら樹53号」と「弘前・内観めぐみの集い」に寄せた原稿に加筆と修正を施したものである。)
NO.2
真栄城輝明先生講演:
「内観療法の臨床実践を巡って」をめぐって・・・・
南山短期大学 木村晴子
内観療法の話をちゃんと聞くのは学生時代以来であろうか。はじめて内観を知り、創始者吉本氏の実践の録音テープを聞いたときには正直なところ妙なものだと思った。その折、こうした技法が今後の日本において一体どのようになっていくのだろうかと思った覚えがある。なにか宗教のような、そして他者に対する恩や自らの罪意識を追及するという、現代に逆行するような、いかにも古い日本的(?) なものに感じられこのやり方が果たして生き残っていくのだろうか?と無責任に考えていたように思う。それから20年余り、吉本氏亡き後も後継者の方々に受け継がれ、学会もできていたのは知っていたけれど、今回のお話を聞いて、それが今なお、というより地味ではあるが、むしろ少しずつ、心理臨床の場で市民権を得て病院等の現場で実践されている実態を感じとることができた。
内観の仕方にはさまざまなバリエーションがあるが、最も基本的で、最初に体験することが多い集中内観においては、一週間ほどの間、朝から晩まで一室のついたての中に座って外界との接触を断ち、“内観ざんまい”の日を過ごすのである。ついたての中ですることは、それまでの自分を振り返り、身近な人を一人ずつとりあげてしらべていく(身しらべ)のである。その内容は、対象とした人(父母、配偶者など)に、
*してもらったこと
*して返したこと
*迷惑をかけたこと
といったことであり、一つずつ、少しずつ思いだし、それを続けているうちに感謝の念、罪償感、後悔の念が自然とわきおこり、価値観の変化、人格の変容へとつながっていくというものである。大切なことは、身近の人をしらべることで“自分をみる”ことであり、己を内から観ることがその基本となる。
さて、今回の講演者の真栄城先生は、お若いころ内観を体験してきた知人の話を聞いて興味を持たれ、ご自身もすぐに道場へ出かけて行って体験をなさったそうである。以来この技法とともに歩んでこられ、勤務される病院内に内観の場を作り、最近は中国にもその指導に出掛けられているとのことであった。
今回のお話のテーマは『内観療法の臨床実践をめぐって』というものであったが、最初に真栄城氏は、「自信のある人はなにかについて話す時、“○○について”とされるが、私のような者は“○○をめぐって”とする傾向があるようです。その周りをうろうろしている、ということで…」といった意味のことを言われた。そういう言い方もできるだろうが、私は少し違ったふうにも思う。 “○○をめぐって”の場合、そのものへの“想い”がとても大きい、深い、たくさんある、といった時、人はそれに対して対象物として客観的に対するのではなく、“めぐり”たくなるのではないか……自分自身も“箱庭療法の○○をめぐって” というテーマのワークショップや学会発表が結構多いときがあったなあ、うんそうか、真栄城氏の内観に対する想いはそうなんだ、と勝手に納得して聞いていた私であった。話された症例については第三者が活字にして不都合や誤解が生じるといけないので内容は割愛するが、夫婦間に多くのわだかまりがあってさまざまな症状を呈していた女性が、内観を通して物の見方が変化し、こころが穏やかになって症状の軽減をみる過程が紹介された。治療者である真栄城先生の、内観導入判断とそのタイミングの見事さが印象的であった。ただ、やはり、内観適用はケースによって向き不向きがあるのではないかとか、内観をすることに対する抵抗(できない、思い出せないなど)を治療者がどう取り扱うのかとかいったことについての疑問も素人としては残っている。後半のトピックスとして話された、中国の“心理療法”との関連のお話も面白いものであった。 2200年も前の「黄帝内経」という文書の中に見られる『情ヲ以テ情二勝ツ』(悲勝怒、恐勝喜、怒勝思、喜勝憂、思勝恐)、つまり、ある一つの大きな感情を乗り切るために別の感情の助けを借りる、といった思想と内観との関わりは、人の心の内に起きる現象として考察を深めると興味深い研究となるだろう。
現在、世界内観療法学会も設立に向けて動いているそうである。しかしそれでも国内においては心理臨床や精神分析の専門化の参加はまだまだ少ないとのこと。内観療法は今やトレンディーなのである!とアピールしたいくらいの気持ちでおられる真栄城氏なのではないだろうか。
『憎しみは一部をみるが、愛は全体をみる』とのM.ブーバーの言葉が思い起こされた。内観によって変化する、周囲や他者に対する感情が単に感謝の念や後悔、罪悪感にとどまるのではなく、さらに大きく質の高い、人間の尊厳にまで関わるものであってほしいと思う。
少し、話はそれるが、さまざまな治療技法にはそれにふさわしいパーソナリティーの治療者が必然的に出会っていくといわれる。お若いときの出会いかち今日にいたるまで、この技法をあたため、病院という治療の場で実践を続けてこられた真栄城氏と内観療法とはどこかで赤い糸で結ばれていたのではないかという印象がある。真栄城氏のような治療者がついたてのむこうから報告を聞くために訪れてくださったら、かなり多くの人が素直な気持ちで自らを内から観る行動に入っていく気持ちになるのではあるまいか……。
(本文は、東海ユングクラブニュースレター、No,10 1995,10,1 発行より抜粋したものです。)
NO.1
一書評一
真栄城輝明著 『心理臨床からみた心のふしぎ』
朱鷺書房(大阪),2001.5.25
巽 信夫 (信州大学精神医学教室)
本書は、内観とユング心理学をベースとし、クライアントにかかわってきた著者自身の"心理臨床にまつわる物語り"である。
氏の豊かで広範な学識と、臨床力量を識る者にとっては、まさに待望の書であり、心の世紀の幕開けにふさわしいタイムリーな発刊ともいえよう。
書中、氏は内観創始者・吉本伊信師につき、"…・子供の心をもちつづけた人"と称し、又、ユング学者・河合隼雄氏については、そのクライアントから、"…・私の話していることでなく、私の一番深いところ、まあいってみれば、たましいといったところだけをみてくれていました…・" という感銘深い言葉を贈られたというエピソードを紹介している。
この、心の在り様と、臨床姿勢は、そのまま著者自身の姿そのものであろう。
さて、生来の子供好きから、子供のセラピストになることを夢みて出発するが、やがて子供に導かれつつ、その親のアルコール依存症の背在に気づかされ、家族療法や集団療法にとりくむなか、内観の効用に注目し、ひいては、独自に"個別内観"を提唱しつつ、今日に至るというのが、氏の臨床足跡の大筋(縦系)である。
そして、その都度のクライアントとの出会いを通じ、感動し、悩み、迷いつつ、あらためて
"心のきずなの大切さ"への気づきを深めてゆくといった、学びのプロセスを横系としながら、物語りがつむがれている。
具体的には、吉本伊信をめぐるおいたちや人間像、心理療法のエッセンスにまつわる諸話題から、スクールカウンセラー活動に伴うエピソード、更には郷里沖縄への想いの数々、ひいては中国への内観普及紀行等々、多彩なテーマがとりあげられている。いずれも、きわめて興味深く、"心のふしぎ"と内観への関心を、あらためて喚起する内容となっている。
と同時に、一つの立場にしばられず、時代的・社会的状況をも見すえたパースペクティブな視界のもと、心の在り様にむき合ってきた氏の自在でしなやかな態度も、おのずと浮きぼりになっている。
なお、各テーマとも、身近かな事実に即しながら、よくこなれた言葉で心のおもむくままにつづられており、その一言一言に筆者の息づかいが伝わってくるのも、本書ならではの持ち味であろう。
心の癒しに対する関心の高まりと共に、様々な技法が普及しつつある昨今、その技法に携われる側の条件があらためて問われているようである。内観療法についても、この消息は例外であるまい。
本書は、幅広い読者各層の期待に充分応えうるものであるが、とりわけ、内観に関心をもたれる方々はもとより、心理療法を学ぶ諸学徒に是非一読をおすすめしたい。
(本文は、2002,5,10発行の内観研究第8巻 第1号、書評、p77より転載。)
【みすずの会】
年2回程度(夏と冬)に開催。
日時;夏は、2006,7,22(土)~23日(日) 1泊2日で終了しました。活発なセッションが展開し、時間を延長するほどでした。その様子の一部が、次号のやすら樹99号に「内観をめぐるはなし」の中で紹介される予定。
次回は、2006,12,16(土)~17(日)と決まりました。入会ご希望の方は、事務局の酒井ゆり子(℡0568-56-3977)か、大和内観研修所へお電話かメールでお問い合わせください。
場所;大和内観研修所会議室
内容;事例検討会(会員制・守秘義務のある方)
*「みすずの会・津軽」が最近誕生しました。
月例会として第4土曜日、午後3時~5時で開催しております。
連絡先の℡・Faxは、0172-36-8028(ひろさき親子内観研修所)
会員は教職員に限られています。ご希望の方は上記連絡先にお問い 合わせください。
【学会関連情報】
第十八回内観療法ワークショップへのお誘い
第十八回内観療法ワークショップ実行委員長 吉本博昭
日程:平成十八年十一月十一日(土) ~十二日(日)
会場:富山国際会議場
テーマ:「生きるちからと癒されるこころ」
申込み:北陸内観研修所(TEL 076 - 483 - 0715 Email info@e-naikan.jp)
今回、「第十八回内観療法ワークショップ」が十二年ぶりに富山で開催されます。現代の日本は、不登校や子どもをめぐる痛ましい事件、ニートの増加、中高年の自殺など、私たちを悩ませています。今回のワークショップを通して、参加者に「生きるちからと癒されるこころ」が生み出され、難問に光明が見えることを願っています。
第一日目は、石井光先生の基調講演「幸せの宝探し『内観のすすめ』」から開始されます。続いて、分科会は、参加者に「学校現場で内観を生かす」、「介護と内観」、「無気力からの再出発」、「暮らしの中の内観」からどれかに選んでいただき、討論の輪に入っていただきます。昨年の自己発見祭りに参加した方は、「これ、ほとんど同じ内容の分科会では」と気づかれるでしょう。「そうです」。好評でしたが十分に語り尽くせなかったという意見を反映した結果です。引き続き開催できる特権を利用させていただきました。
第二日目は、恒例の体験発表を高畑晃さんと高橋容子さんにしていただきます。最後は、村瀬嘉代子先生の特別講演「子ども時代とこころの橋『潜在可能性に気付く』」で子ども本来の持つ豊かさや個性について取り上げられるでしょう。
童話「ハチドリのひとしずく-いま、私にできること-」のように、富山のスタッフは自己発見祭り、内観療法ワークショップ、日本内観学会を開催することが、内観発展の起爆剤になる位の気構えで皆様を迎えたいと思っています。
参加費 (2日間)
一 般 6,000円
学生・会員 5,000 円
懇親会費 7,000 円
募集開始/募集開始平成 18 年 06 月 05 日(月)
締め切り平成 18 年 11月 05日(日)
応募方法/パンフレット内の専用振込用紙にて
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第三十回日本内観学会in富山のお知らせ
第三十回日本内観学会大会長 吉本博昭
日程:平成十九年六月八日(金) ~十日(日)
会場:富山市民プラザ
テーマ:「時代が求める内観」
申込み:北陸内観研修所(TEL 076 - 483 - 0715 Email info@e-naikan.jp)
富山の地において、第十二回、第二十三回、そして第三十回の本大会開催を行うことになりました。振り返りますと、第十二回は吉本伊信氏の逝去直後に開催され、第二十三回は柳田鶴声、吉本キヌ子氏が亡くなられ、第一世代から第二世代に引き継がれた直後の大会でした。今回は竹元隆洋大会長、三木善彦事務局長がそれぞれの役から降りられ、第三世代にバトンタッチされた最初の大会となりました。富山大会は、学会の節目に遭遇するような気がし、その責任の重大さを痛感している次第です。
準備委員会では、第十八回内観療法ワークショップの準備とともに本大会に向けて取り組み、その中で「時代が求める内観」を総合テーマにしました。混迷する現代日本において内観が今まさに求められているという確信とともに、内観学会が新ジェネレーションにその舵を委ねた時、このテーマが当を得ていると考えるからです。
プログラムは、第一日目が「面接者の条件」として四名のシンポジストによるシンポジウムを、二日目が研究発表に続いて、シンポジウム「時代が求める内観」を、次いで草野亮氏の特別講演を企画しています。第三日目が、研究発表後、三木善彦氏の内観事始に引き続き内観体験発表、そして最後が神渡良平氏による特別講演で会を終える予定でいます。
是非、富山まで足をお運びいただき、内観の息吹に触れていただけたら幸いです。
内観医学会
内観療法をもっと医学界に広めるために、元鳥取大学医学部の川原隆造教授が世話人となって、平成10年に研究会が持たれその後、医学会へと発展しました。年に一回、学会が開かれ研究論文『内観医学』が発行されています。会員は、医師と心理臨床にかかわる者と規定されています。
事務局/ 九州大学心療内科
〒812-8582
福岡市東区馬出3-1-1
九州大学心療内科
TEL:092(642)5317 FAX:092(642)5336
第9回日本内観医学会
総合テーマ 未定
日時/平成18年10月7日( 土 )
会場/大阪
主催事務局 / 近畿大学医学部精神神経科学教室
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