【内観体験発表】教師としての自分を見つめて 酒井ゆり子(公立中学校教諭) 私は中学校で国語の教師をして20年ほどになります。現在勤めている中学校に8年前赴任しました。当時、その中学校では、今、大和内観研修所の所長をされている真栄城先生がスクールカウンセラーとして勤めていらっしゃいました。クラスの不登校の生徒のことを相談したのがきっかけで自分自身もいろいろ相談に乗っていただくようになり、任期を過ぎた後も生徒のことなどで行き詰った時には相談にのっていただいたりしています。 このような縁で、今回、多くの方の前で私の内観体験を聞いていただく機会を与えられ、ありがたく思うと同時に自分自身でも驚いています。 私が初めて「内観」を体験したのは4年前の夏です。真栄城先生が奈良に移られたのをきっかけに内観研修所に行きました。最初の「小学校低学年」を調べていたら、母の笑った顔が浮かんできて、驚きました。以前から母は怒ってばかりいた、という印象が強かったのですが、ひょっとして母に対する私の思いは、記憶違いかもしれない、という気持ちになってしまうほどでした。屏風の中で、母に作ってもらった洋服が次々と思い出され、もと住んでいた家の庭や部屋のようすなど、すっかり忘れていた場面が映像となって蘇ってきました。最初の面接から泣けてきて、うまく話せませんでしたが、だんだん慣れてきて、自分はとても小さくて何もできない情けない人間なのに、母や父、弟のなかで愛され、多くの人に大切にされ、支えられてきたんだ、という実感がもてました。 そして、「こんな自分でもいいんだ。」という気持が湧いてきて、ありのままの自分を受け入れている自分がいました。 そのときの集中内観はとても温かな気持ちに包まれて終わりました。 日ごろ、ほとんど夢を見ないのですが、内観1日目に、木の枝の二股に分かれているところから小さな青虫がひょっこり顔を出している夢を見て、新たな「誕生」を感じました。 また、とてもおかしい夢を見て、自分の笑い声で目を覚ましてしまいました。こんなことは初めてでした。朝の最初の面接では「昨夜はよく眠れましたか?」と訊かれるので、夢を見たときはそれについても話すことができました。特に面接者が解釈してくれるわけではないのですが、どちらの夢も内観中の自分をよく表しているな、と思いました。 次の年の夏、何かやり残したような気がしていましたので、2度目の集中内観に行きました。そのときは屏風の中に入ってみて、自分はとても疲れていたんだ、と気がつきました。 自分の疲れにも気がつかないくらい、私の疲労度は限界を超えていたのです。 その頃、貧血で治療中でした。診ていただいたお医者さんや看護士さんが「疲れるでしょう?」と何度も聞いて下さったのですが、自分自身はあまりピンときませんでした。 今思うと、感覚が麻痺して、疲れを感じることも出来ず、精神的には相当無理をしていたように思います。内観研修所という非日常の世界に身を置いてはじめて日常での疲れが自覚できたのでした。屏風の中に入ったとき、ほっとしたのを覚えています。 そのときの内観では、まるで幻聴のように、「声」が聞こえてきました。以前に母が私に言った言葉が母の声ではっきり聞こえてきたのです。特に自分でもびっくりしたのは思春期の私が「産んでくれって頼んだわけじゃない!」と母に向かって放った自分の声が、はっきり聞こえてきたことでした。すっかり忘れていたことなのでとてもショックでした。これは、最初の内観では全く思い出すことはありませんでした。 2回目の内観のあとに、職場の人たちに「変わったね。強くなったね。」とか「この頃いつも明るいね。」と言われることが多くなりました。 確かに、以前の自分と比べてタフになったような気がしました。 たとえば、以前は校則を守らない生徒を叱ったり、問題行動があっても制止することができなかったのですが、内観後は、そういう場面でも踏ん張っている自分に驚くことがありました。自分の仕事をこなすのに気持ちが精一杯で自分からすすんで何か言ったり、したりすることもあまりなかったのですが、「こんなこともしたい。」という気持ちになったりしました。内観で自分が少し変化した、という自覚がありました。 ところが、まるでそんな私を試すかのように、新しく受け持ったクラスにTさんという女の子が登場したのです。Tさんは1年生のときからいろいろ問題の多い生徒で、学校にもあまり来ませんでした。1学期、Tさんはある事情から私の自宅を知り、友人のAさんと深夜私の自宅を訪ねてきました。二人でタバコを吸ったり、冷蔵庫を勝手に開け、食べ物を食べたり、勝手放題でした。 もちろん、煙草は注意しました。冷蔵庫は、彼女の家庭の状況を知っているだけに、お腹をすかしてのことだと思い、一応大目に見ておりました。 そのときの訪問をきっかけに、彼女はその後もたびたび訪れるようになりました。2度目は、夜中に雨に濡れたからと言って、シャワーを浴び、そのまま朝まで帰りませんでした。その夜、私は殆ど一睡もせず出勤しました。3度目にきたときは、こんなふうに好き勝手に訪ねてこられても困る、と私にしたら珍しく強い口調で注意しました。 すると、「迷惑かけてごめんなさい。頼れるのは先生だけ。好きだよ。」というメモを残して帰りました。彼女の寂しさが伝わってきて私の心は揺れました。しかしこのままでは良くないと思い、4度目に来たときは、居留守を使いました。 すると、夜中だというのに大声で怒鳴ったり、ドアを何度も叩きました。それでも私はドアを開けませんでした。翌朝、玄関のドアを開けると煙草の吸い殻が二つ捨てられていました。そのときは、これからも夜中にいつ押し掛けてくるかと思うと、恐怖感さえ感じました。このままではご近所にも迷惑をかけるし、どうして良いのか分からず、真栄城先生に相談しました。先生は、学校での私の事情もよく理解して助言してくださいました。というのは、私はクラス担任だけでなく、相談部の責任者としての役割を引き受けていました。そこでは、不登校の生徒や別室登校の生徒達のカウンセリングやプレイセラピーを担当していました。二人は彼氏と別れたりして拠り所をなくしてくるということもあり、受け止めてあげたいと思う自分と、でも、もう一緒にいることが嫌で、心から話を聞けない自分がいました。 「Tさんに対しては、カウンセラーとしてではなく、担任教師として毅然とした態度で、文字通り教え諭す、教育者として臨むように」というのが真栄城先生の助言でした。 この相談をしていくなかでほんとうに少しずつですが、自分自身の問題にも気づかせてもらいました。私の中には、人によく思われたいという気持ちが強く、嫌だと思うことも断われない自分がいて、どんどん二人の甘えをエスカレートさせてしまい、挙げ句の果てに、二人を恨んでしまっていました。とにかく、その助言をもらって、私の精神状態も安定していたのですが、秋の体育大会の練習中に起こった、ちょっとした事件が引き金で、私は自分の限界を知らされることになりました。簡単に事件のあらましをおはなしすればこうです。 私の帽子をTさんがかぶっているので、「返して!」と言ったのですが、彼女はそれを無視して返さず、大人げないのですが、つかみ合いの喧嘩になってしまいました。私は、口の中を切ってしまい、Tさんの腕には私の爪跡が残りました。 Tさんは、その後落ち着いてから、私に「いつもならこんなことでは怒らないからいいと思った。」と言っておりました。 わが子の反抗期に直面することによって親自身が成長するように、教師も生徒の反抗に鍛えられて一人前の教師になっていくように思います。 私は、これまで生徒を指導したり、諫めたりすることを苦手にしておりました。Tさんは私の教師としての態度がどのくらい本物か試してくれたと言っても良いかもしれません。 私は、なんとか教師らしく振る舞わなければ、という意識が強く、またこのまま受け入れてはいけないと思い、Tさんに対してかなり過剰に反応してしまったようでした。 その後、自分の気持ちを率直にTさんに話すこともでき、お互いに納得したものと思っていました。そして、担任としてなんとか彼女を無事に卒業させることが出来た、と安堵していたのですが、気持ちに張りがなく、気分がふさいでいくのを感じるようになりました。 その頃、なんだかよくわからないけれど、「自分がもう限界だ。」という気持ちがだんだん強くなっていきました。しかし、何に限界なのか、どうしてそう思うのか、自分自身、言葉に表すことも、深く考えることもできずに、ただ、この気持ちをどうにかしなければいられない、と思ったとき浮かんだのが「内観」でした。いつ予約をとろうかな、と思っていると夢を見ました。生徒なのか、教師なのかわからない自分が学校で爆弾を爆発させている夢でした。それでこの後すぐに、予約の電話をいれました。 今年の3月のことです。3回目の内観を体験しました。 このときの内観は仕事の関係で3日半くらいしかとれませんでしたが、内観へ行かなければ、自分を立て直すことが出来ないほど切羽つまっていました。 「なぜ内観をしようと思いましたか。」と聞かれても、漠然として「自分を振り返ってみたいから。」としか答えられませんでした。でも、その時Tさんとのことが思い浮かびました。そのことは気になりながら、整理しないまま来てしまったので、うまく説明することもできませんでした。 今回は短期の内観であったため、内観に入る前に、まず、出来事を書いて整理してみるように助言されました。その結果、自分の限界感や抑鬱気分の背後にTさんとのことがわだかまっていることに気づくことが出来ました。Tさんを切り捨ててしまった自分への罪悪感。教師として向き合わなければならないのに、Tさんを甘えさせ、離れられない自分。いろいろな自分が見えてきました。 しかし、それだけでは、自分の心が納得してくれませんでした。 短期間の内観ではありましたが、Tさんへの内観にはいる前に「母」に対して調べることにしました。多くの出来事は1回目、2回目の内観で思い出されていたので順調にすすみました。 でも、今回、どこを開いても朝早くから家事をしている母、仕事で疲れ、布団に入っている母のように日ごろの母の姿が浮かびました。このことをどう面接者の方に伝えていけば、よいのか戸惑いました。その時の出来事を中心に以前は考えていたのですが、どの時も母が私のために働いたり、気を遣ったりしているようすが思い浮かびました。自分のためではないのに、母はそれを嫌そうにはやっていませんでした。まるで、そうすることが、あたりまえのように働いていました。以前よりもずっと母の思いを感じることができました。 「母」が終わって、Tさんに対する内観を始めました。前よりも素直にTさんのことやTさんに対する自分を考えることができました。Tさんがつきあっていた男の人のことで相談に来た時にきちんと向き合わなかった自分が表れたり、TさんとAさんが教室を離れ、一緒に給食を食べようと言われた時ずるずる受け入れていた自分を後悔したりしました。面接で真栄城先生に「帽子はなんだったのでしょう?」と言われ「自分の気持ち。 でも、それをあげることはできませんでした。」と答えたとき、自分の切羽詰ったそのときの気持ちが思い出されました。そして、あの喧嘩のあと、Tさんが登校するときはとても気を遣ってたことに気がつきました。もっと早くTさんと教師と生徒という枠組みを築けたら、お互いにこんなに傷だらけにならなくてもよかったのに、と思いました。自分がTさんによく思われたくて受け入れていることが、Tさんも自分も傷つける結果を生んでいました。自分がこの問題に向き合うことが怖くて、考えないようにしていたんだ、ということにも気づくことができました。母の内観をして自分の心がこの問題に向き合う強さが生まれたのだと思えました。長い間、私の中には母から見捨てられるのでは?という不安が潜在していたことにも気づくことが出来ました。 母やTさんに対する内観を通してやっと自分の中に課題に向き合えた気がします。夏に頭で考えたことが心で感じることができたようです。そして、「内観」を通して前向きに乗り越えようという気持ちが湧いてきたように思えますし、もし「内観」をしなかったらこのまま夢のように爆弾を爆発させていたのかもしれません。 この内観中に見た夢で内観に行くきっかけとなった夢とつながる夢があります。車で走っていると、煙が立ち込めていて迂回路に回りました。 すると、そこに人が倒れていて、どうもその人が爆弾を爆発させたらしい、と分かります。その人を車から降りて助け起こす、という夢です。そこには面接をして下さった真栄城先生もいて、「こんなことではいかん。」と叱っています。爆弾を爆発させた人も助けた人も私だ、と思いました。自分を自分が助け起こすというところで「内観」にきてよかったなと思いました。このように夢によって内観中の自分の気持ちの状態がよくわかりました。 「内観に行く。」と言うと、周りの人に「大変じゃない?」「つらくない?」と言われます。自分でもなぜ行きたいのかわからないでいますが、本能のようなものが、「行かなくては。」と言っている気がします。毎日、毎日の生活の中では自分自身が生活していくことが精一杯で、本当の心の奥まで振り返ってみることができません。気付かずに、または気付かないようにしていることがたくさん心の底にたまっていっている気がします。つらかったこと、悲しかったこと、苦しかったこと。大丈夫と思って、何でもないように、終わったことのように考えていても、それは自分で、自覚していないだけで、心の中から消えてなくなっていません。 でも、実際にそのことをみつめられない怖さがあります。屏風の中で母や父のことを考え、自分の情けなさに泣いていると、自分の中のそういう気持ちにも安心して素直に向き合える強さが生まれてくる気がします。内観は私にとって、心の底の気持ちを整理し、新たに出発させてくれるもの、という感じがして、なくてはならないものです。自分のしていることが「内観」になっているのかよくわかりませんし、自信もありませんが、このような体験をさせていただいていることに本当に感謝しています。 また、私のつたない話を最後まで聞いていただきありがとうございました。 (本文は、第27回日本内観学会における体験発表の原稿を寄稿していただいたものです。酒井先生に心より感謝申し上げます。)
スポンサーサイト
大和内觀研修所での體驗一週間 李 李 大云 l はじめに. 「内觀」とは なにか?… 集中内觀を 一週間 體驗したとして,内觀とは こういふことだと 理解するのは,あまりにも行き過ぎるのではないかと思ふ.しかし,一週間の内觀體驗での感想を 述べるとするならば "内觀"とは 文字そのとほり 自身の心の内側を觀ることだといへる. この世のことから離れ,神さまの前で自身の過去を告白するときは, 先ず,自身を顧りみる姿勢と全くおなじではないかと(私がカトリックの信者でもあること)おもわれる. 内觀とは,佛の禪から由來したとされる.しかし,今から50余年前に吉本伊信先生(1916~1988) が 現代人の爲に 自身の内側を觀て自覺する修行法の一つとして開發されたことだと,今度の内觀研修において,はじめて分かったことである. 最近は内觀の體驗が自身の修養のほかにも,精神および心理療法として廣く利用されているようである.不安,焦燥,憂鬱,不眠,神經衰弱等,精神 心理的に健康でない人達,藥物中毒者, 夫婦 または 姑婦間の葛藤, 非行少年 犯罪行爲者が内觀の修練後,自覺とともに 新しい生活ができた人達が 多くなったといはれている. 私の 個人的な考えでは,大部分 社會的な犯罪,不安,混亂な對人關係で,傷ついているとか,家庭の不和, 孤獨感, 罪意識などが 無意識的に各自の心の一隅に屈折していると考えられる.この屈折が なにかと探して觀ればその解答がを得られるのではと思はれる.それで,内觀とは 自身を深く觀ることで 自覺とともに 新しい生活に發展していく,自身の修行療法のひとつではないかと言へる. 2.私が初めて内觀に出合った こと 午後 5時頃 外には 夏のあらしが 急に ものすごく 降っていた.四方が眞つ暗らで陰鬱であつた.傘もなく,どうして 家に歸えるのかと一人言をいっていた.どういうわけか 心が鬱寂になり 孤獨感が襲ってきた.私はいま何をしているのか? 何をすればいいのか? はたして,私は何なのか? 年も多くなるし,なん年の後は停年退職もしなければならないし,このような 生活でおわるのか? それよりも 私は 神さまに,この世で なにをしてきたのかと 言ったらよいのか,このような雜念に捉われてしまい、たまらないほどつらくなった.そこで、いつも親しく會つてくれる 許瑾 神父(カトリックアルコ-ル司牧セン-タ)の所へ面談にいった. 許瑾 神父は いつもと同じように あたたかく 私の話を聞いてくれたあと,私に 内觀案内書を いっさつ くれながら 一度 讀んでみればとの おはなしであった. 内容は,日本の "瞑想の森 内觀研修所"の紹介と内觀の體驗談(洪裕碩氏の飜譯)であった. そこで,氣付いたのが,自分がいままでは 人生の先だけをみながら走ってきたようで,内觀によって,自分の過去を 一度 顧りみ,今後は どう生きていけばよいのか,また, 價値のある生き方とは何なのか? 事實,このような事に對して,いままで深く考えたことが一度もなかった.また,一日24時間中,化粧室に座わている時間の外にはなにかを考えてみる時間も別になかったようである. 自分も一度内觀をしてみよう,そう思ひながらも内觀の體驗申請をする前に,内觀研修所を一度訪問し, 見學してみたいと思った. それで,會社に一週間の休暇をとり,日本産業カウンセリング協會の研究大會に參加した後,大阪のカトリック内觀瞑想の家と奈良の大和内觀修練所を訪問し,内觀の體驗が, はたして自分の一生にどのような變化が期待できるのか,まず,心の準備をしておきたかったなのです.勿論 朴鎬(カトリック大學授)と洪裕碩(大眞大學授)二人の同行と案内をお願いしての訪問であった. カウンセリング研究大會の翌日の午前中,最初に カトリック内觀瞑想の家(マリア修道院)で,藤原神父を訪問することにした. 藤原神父は私達が訪問するとの連絡を受けていたので,わざわざ近くの賣布驛まで仰えにきて下さいました.また,藤原神父のとても謙遜な姿勢におどろき恐縮しました.藤原神父は 大阪區所屬の司祭で 會の司牧と,神學校の指導神父を歴任任したあと,約10年前から 内觀修練の擔當司祭として 各地域 の 聖職者,修道者,および,平信徒の内觀修練を指導していました.修道院内の内觀研修室を案内とともに内觀修練時の面接の實施もしていただいた. 高さ約 1米程の和紙で作られた屏風の内でした.藤原神父は面接前後に屏風の外で正坐の姿勢で日本語がよくわからない私にしても,その雰圍氣がとても嚴肅であることをしみじみと感じられました.特に平信徒の前に正坐しておじきするとは,信者の一人として此の世に生まれて初めての光景なので私が受けたおどろきと衝撃は大きかった. 午後は 電車で,大和内觀修練所を訪問しました.日本の内觀研修所の本部でもあり,内觀創始者である吉本伊信先生が内觀を始められた内觀の總本山地で,内觀創始者の精神と魂が殘ってい所である.多くの外國人達もの研修所で内觀の修練をしていたところでもある.別棟の資料室には内觀研究の資料と本が山ほど所藏されていた. 日本では,内觀が 精神醫學界および 心理學界で 内觀心理療法として活用され その效果が,立證されているし,内觀學會の活動も學術的に相當な水準に達していることが分かってきた.眞榮城輝明先生は,吉本伊信の創始から,3代めの所長で,臨床心理士として病院で24年間の心理治療の經歴とまた,大學の臨床心理學の講師(非常勤)を2年間務めた後,ここの所長に赴任してきた方であった. 修練所は純日本式の木造の新らしい建物で, 2階がの修練場で多くの部屋があった.超現代的な完全自動化した施設で,食堂,化粧室,お風呂の湯かげんも自動化している.別棟では,内觀の歴史と今までの活動を紹介していただいた.私が まず,心配したのは内觀が カトリック信者としての 理と信仰生活に どのような違いがあるのか,また,内觀のための時間と努力をつくした效果に たいする疑問も檢討してみたかった.その結果,内觀とは混濁で複雜なこの世の現代人において自身と共に生きる必要の方法として,またカトリックの理とも適合するのではとの 確信をもてるようになり,2個月後に,内觀修練に參加する約束をして 歸國しました. 3.大和内觀研修所での内觀體驗 まず,私の内觀修練の動機ですが,私は今まで何をしてきたのか? いまは 何ををしているのか? また,今から 何をすればよいのか?を 自分が何を探し求めているかである.勿論 内觀の動機においてはこれまでの私の歩んできた人生が深くかかわっているのですが、私の家庭環境は曾祖父時代から熱心なカトリック信者の家系であった.それで,私も幼兒洗禮をうけましたし,小學校3年のときに靈聖體もうけました.そのあと,母の勸めで 中學,高校も カトリック系統で,大學も神學校に入學し,卒業後,神父になるのを目的に勉学に励みました. しかし,神學校の卒業直前に思ひつかなかった突然の事故で神學校を退學させらたのです.その心の傷と私を追い出した會にたいする反撥で,アメリカに留学して神學の勉強も續けましたが,結局 結婚をして 今は,妻と 二人の子供を授かりました。これも 今では神さまのおかげではないかとおもひます。が,神學生時代の事と神父になれなかった當時の心の傷の治癒は必要不可欠なことであり、その心の傷の治癒ができればと思っていたところ、内観を紹介され、内觀修練に来たというのが私の動機である. (1)内觀修練手續 ようやく 2002年 7月 7日(日) 内觀修練の爲,ソウルの仁川空港から大阪の關西空港を經由,空港から J R 線を乗り継いで、大和郡山に到着したのは 私を包め 一行 4名であった.その中の一人は. 高等學校の校長を退職後, 今は 養老院を經營している方で,もう一人は 個人事業の自營者で, また 一行の日本語の通譯として隨行した金相文氏(内觀に關心が高くソウル家庭法院の調停委員の經歴)である. 大和内觀研修所に着いたときは. 眞榮城所長と,私達のことをきいて,わざわざいらした,山大學の石井光授にごあいさつをかわしました.石井授は法學部の授なのにも内觀の著書も多い有名な方でもある. まず,修練申請書には,住所, 姓名, 年齡, 健康状態, 食事の準備の爲の參考事項と又 修練の受けることになった動機,内觀に對しての紹介者を書く欄があり,内觀に入る前に,家族, 會社の同僚 親友など 自分に影響をあたえたと考える人達の紹介などの談話がありました.. 1). 修練守則 内觀の修練にたいして守もらなければならない規則があり,その具體的な内容は次の通りである 1) 内觀中は絶對的な沈默であり,もし,知人と相面したときとか,内觀の一行とすれちがったばわいでも見ない振りをし,自身の事、即ち内觀に專念すべきである. 屏風の中に入った後は外には出られない,化粧室とか お風呂を使うとき以外は許されない 萬一,それが守らねないときは,内觀を中斷して家に歸へるしかない. 2)食事は 面接者が配達してくれるので屏風の内で食べます.食事も内觀の繼續であるからです.食事の内容については、健康上の特別な事情がある場合は,事前に連絡することができる.屏風の内での姿勢は自由ではあるが,よこになることはできません.ただ,からだの不自由な方,身體的に問題のあるときは,椅子または 寢臺の使用も許されます.服裝は平常服で行動も屏風の内では自由である. 一週間の内觀中 一日 數十分は簡單な作業も行なわれます,たとえば,掃などで,體を動かすことで,消化の促進と 筋肉を解きほぐし,疲勞 回復を謀るためである. 3) 内觀中は TV, ラジオ, 新聞,雜誌,電話,手紙をかくことは絶對的に許されません.外部と遮斷して内觀に熱中させるためである.もちろん. お酒もだめです.煙草はとくに禁止ではないのですが,喫煙は喫煙室でのみ許されています.内觀中は字を書くのも許されません.最小限のメ-モは許されますが,一分一秒でも内觀に集中させるためです. 4). 次に内觀に入りますが,まず先に 自分の生活の中で最も深い影響を受けた父母から始めます.もし,父母の記憶が全ぜんないばあひは,その代りに恩惠を受けた方から始じめますその次からは 妻,夫,子供,兄弟 親戚,恩師.恩,部下,同僚と,自分が内觀に入り順序をきめる 内觀の第一歩は,お母さんにしてらったこと,自分がしてあげたこと,迷惑をかけたこと, この三っの質問を,過去から現在まで思い出すことからはじめる.また思い出すことも年齡別に分け,最初は 小學校 1年から 3年まで,次は 4年から6年までと 中學校,高等學校,大學時節等にと内觀に入ります. (2)内觀修練中の感想 指定された屏風のなかで静坐するにはせまい空間であり,四方を屏風でかこまれているので外部とは完全に遮斷されているのは,自分を深く觀る事に專念すためだとおもひます.ただ 天井だけをみることしかできないので、私は1分もたず窮屈で がまんできないほどになりました.一週間をどうして耐へられるのかが心配で,自分を知るよりも,もし,精神病者になるのではないか? はたして期待するほどの效果があるのか,又,宗を持たない面接者からの影響で自分の信仰心も喪失するのではないかと はじめは いろいろな雜念と身體の苦痛と不便がしてきた. 目を閉じて内觀に集中しようと努力してみた.今までは目をあけているのは,なにかを觀るためであった.すくなくとも,一日の 16時間は外觀でしていたのである.ここでは,反對に 16時間の内觀をすることになった.今までの私の判斷はおもに外觀によってであった.他人があのようなの行動をするなら 私もそのように行動をし,相對方の缺點や 短點を批判的に判断しながら,自分の行動はいつも正當化してきた. 今からは 靜かに,自分の過去のした事をふりかへりみることにした. 一, 二日,すぎたころころからは,心が少しずつ落ち着きはじめて,なにかが見えるようになった.せまいところだと思っていた屏風の中が,今は海のように廣く,心ゆくまで水泳もできるような氣持になってきた。また,この中には,私の生涯があり,父母があり,妻があり,子供があり,今まで共に暮らしてきた人達があり,うれしいこと,喜しいこと 愛と 憎しみは勿論 平和なひと時だけでなく、不安で過ごした日々もあった.(本文は、加筆と修正を加えた後、内観ニュース第28号に掲載されているが、それの元原稿である。翻訳は、大眞大學の洪裕碩授による。著者の李氏は、内観後、韓国に内観研修所を設立するために心理学の博士号取得を目指して、アメリカの大学院に入学し、今年の2006年5月に博士号を授与されたと知らせてきた。2006年10月には韓国で内観療法ワークショップを開催するという。いよいよ近く、韓国に第一号の内観研修所が設立される予定のようだ。楽しみである。)
「内観法」のご案内 内観寺事務長 吉本 正信 「内観」と「内観法」という言葉の使い分けについて、私は次のように考えています。 「内観」とは方法・型式のことを言います。そして、何のために内観するかという目的によって呼び名が違うのです。例えば、矯正教育等が目的の場合は「内観教育」、心身症の治療等が目的の場合は「内観療法」、求道が目的の場合は「内観法」と呼びます。 このように「内観」という方法を宗教の修行の一つとして取り組む場合を「内観法」と呼びます。方法としての「内観」は宗教ではありません。しかし、宗教者が修行の一つの方法として内観すれば、それを「内観法」と呼ぶと考えます。では「内観法」は宗教でしょうか。「内観法」は宗教の修行ではありますが、内観教といえるような教義もありませんし、教祖もいませんので、「内観法」は独立した宗派ではありません。また、一宗一派に属するものでもありません。「内観法」は全宗教共通のものであり、宗教の基本とも言えると思います。しかし、「内観法」が全宗教共通のもので宗教の基本と言えるものであっても、現在の日本の法律では宗教とは言わないようです。「内観法」の基礎になった「身調べ」とは昭和十一~二年、吉本伊信が諦観庵の駒谷諦信師から指導された修行法です。「身調べ」を指導していた諦観庵は西本諦観師が創設されました。西本諦観師は浄土真宗西本願寺の役僧でしたが、能登の千恵光師のお導きにより転迷開悟され、後に西本願寺から離れて諦観庵を創設され「身調べ」を指導されました。千恵光師についての詳しいことは不明です。以上のことから「身調べ」と浄土真宗との関係は不明です。西本諦観師が浄土真宗の僧侶であったことから、「身調べ」も浄土真宗の信者の間に広まったのではないでしょうか。「身調べ」は諦観庵の修行法でしたが、修行中の面会禁止や修行内容の口外禁止等の秘事法門的部分を改善して昭和十六年頃から「内観法」と呼ばれるようになりました。昭和二八年、奈良県大和郡山市に吉本伊信が内観道場を開設し、内観法の普及に専念しました。その後、昭和三〇年に浄土真宗木辺派の末寺として宗教法人内観寺が設立されました。諦観庵と浄土真宗木辺派との関係は見当たりません。以上のことから、「身調べ」と浄土真宗木辺派との関係もないと考えます。内観寺は浄土真宗のお寺です。自力、他力の問題については「内観して救われるのではなく既に救われていることに内観して気づく」と考えておりますが、他の宗派、宗教の方にはどちらでもいいことだと思います。とにかく内観寺では、内観した人が浄土真宗の信者になるとか内観寺の檀家になるということは求めていません。内観によって、一人でも多くの方が、「どんな逆境にあっても幸福に生きていける心境」になっていただくことが目標なのです。どんな宗教でも「内観」で修行することは可能ですが、「内観法」そのものは宗教ではないと考えています。何のために内観するのかという動機としての目的は人それぞれですが、目標は「どんな逆境にあっても幸福に生きていける心境になること」です。富士山の頂上は一つなのに登山口がいくつもあるようなものです。ただし、「内観法」には終わりはなく、一生日常内観を続けることが重要です。各地の内観研修所は独立採算、自己責任で自主的に運営されていて、内観寺とは別組織です。内観寺の考えにとらわれず、独自の考えで「内観」に取り組んでおられます。内観寺は内観センターを運営することにより、内観寺の目標実現をめざしています。内観センターは内観に関する資料の収集・整理・保存と図書やテープを販売しています。中田琴恵さんが「内観して腹を立てることがなくなりましたか」という質問に対して「はい、腹を立てるほど私はきれいな人間ではないんですので、本当はどんなことをされても、持っている一番大切なものを取り上げられても、突き飛ばされても、それで当たり前のような汚い人間ですから、腹を立てるのが間違いですが、やはり内観を深くさしていただきませんと、瞬間でも腹を立てております。それが一番申し訳ないと思います」と答えておられます。中田琴恵さんのような心境に到達されれば、浄土真宗の教えをご存じなくても、どんな宗教の信者であっても、内観寺にとっては同じことです。一人でも多くの方が、「どんな逆境にあっても幸福に生きていける心境」になっていただければ、それでいいのです。「今死んだらどこへ行くか」という質問があります。「内観」の三つの質問には含まれていませんが、「内観法」にとっては大変重要な質問です。「今死んだらどこへ行くか」という質問を抜きにして「内観法」はないと考えます。「今晩死ぬかもしれない」と無常をとりつめて内観すること、「今死んだらどこへ行くか」という質問の答えを求めることで、中田琴恵さんの心境に到達することができると思います。吉本伊信はその著書「法味道しるべ」の中で次のように書いています。 「死んで生き返った人もなし、有るとか無いとか言っても、共に不明の事、不解の話と片附けて忘れ去りたいのが私の心ですが、一体、人間死ねばどこへ行くのであらうかと、真剣に真面目に求め尋ねるのと、少しも心に止めないのとで、人間としての偉大さが決まる分水嶺かもしれない。釋尊をはじめ古来幾多の高僧聖人は、この死についての解決を求め、後生知りたさに道をたどり、安心立命、大悟徹底された事実は誰もよく知っておりながら、自分自身の後生について真面目に大事をかける人は少い。 真宗七高僧の一人で恵心僧都(源信和尚)はその著『往生要集』にはっきり、地獄、極楽の有様を詳しく教へて下さってはあるが、『あれはいましめの為に、かりにたとえての想像であろう』と笑いながら、絵のみを見るのが私の姿である。(中略)夏生れて夏死ぬ蝉は、春も秋もあるんですが知らんだけです。私等にも、地獄もあれば極楽もありますが、ただ知らぬだけのことです。自己究明、反省、内観、身調べの結果、現在の自分は、地獄行きの種を沢山造って居るか、極楽行きの種を沢山持ちあわして居るかを知ることによって、御自分の後生は極楽行きか地獄行きかが知れるんです。(中略)反省の徹底により罪悪感、無常観が熾烈になり、三定死の境に到り、二河白道の旅人様の御跡を歩む人のみ往生要集を読まなくても、自らの内心を見るだけではっきりはっきり存在の事実を体感されるのではなかろうか。その地獄行きの自らを知る人だけが、極楽の実在をも体感出来る一歩前と思う。火と水のそのなかみちを行けよ人 こいよ行けよのこえをたよりに」 〈参考資料〉 「信前信後」昭和六〇年吉本伊信著 「やすら樹№62」〈中田琴恵さんの日常内観〉 「やすら樹№78」〈内観とは何ですか?〉 録音テープ「妹の死」 【本文は、やすら樹95号より転載しました。】
【本文は、第28回日本内観学会大会のシンポジウムにおいて発言したものです。内観研究12巻(p27-34)の特集より抜粋して転載しました】 ―特集―学校・家庭・職場における内観の適用 ―心理・教育臨床の立場から ー 真栄城 輝明 東洋的心理は何事も内に向けようとする。東洋人は大体にイントロヴォルト(内向的人間)だ。西洋人はエキストロヴォルト(外向的人間)だ。それで彼らの好奇心・研究心は外へ外へと向かってゆく。ひろがってゆく。内側の方は、お構いなしというくらい閑却している。 外は広い、内は深い。 -鈴木大拙―(5) Ⅰ. はじめに これまで医学モデルとしての内観に主眼が置かれ、それをテーマにしてきたのは、本学会の一つの傾向であり、大きな流れであった。 ところが、第28回大会の準備委員会は、これまでとちがって「各分野における内観の適用」を大会テーマとして掲げてきた。内観が医学モデルを超えて大きな広がりを見せ始めたようなのだ。時代の流れに沿って内観にも変化が訪れたと言ってもよいだろう。今回のシンポジュウムは、学校・家庭・職場において内観がどのように適用されているのか、あるいは今後、どのように適用されうるか、といった内容であったように思うが、この時代にふさわしいテーマであった。 そこで、本誌は特集を組んで当日の内容を掲載することになった。特集を組むに当たっての詳細な経緯については、シンポジュウムの座長を務めた巽信夫が述べることになっているので、そのあたりの事情は、氏の筆に任せることにして、小論は、当日のシンポジュウムで発言したものに若干の加筆と修正を加えてまとめ直したものである。 さて、本論に入る前に、まず、当日のシンポジストに指名された筆者の立場から述べることにする。 Ⅱ. シンポジュウムにおける筆者の立場 シンポジュウムに先立って大会準備委員長から次のような依頼文が届いた。 「学校・家庭・職場における内観の適用についてそれぞれのお立場から発表をしていただきます。真栄城さんには、家庭のごく普通の問題(親子、夫婦、嫁姑など)について、あるいは、家庭に限らず内観の適用についてオールラウンドにお話いただいてもいいかなと考えています」(原文)という内容であった。 シンポジュウムのタイトルには、学校・家庭・職場という3つの立場からの発言が指定されていた。そこで、筆者には家庭の問題について、しかもオールラウンドな視点から発言することが求められた。そのためには、筆者の立場を示す必要があった。サブタイトルにしてそれを示しておいたが、以下には、表題のサブタイトルについての解説からはじめよう。 【心理・教育臨床の立場】 筆者は臨床心理士である。一口に臨床心理士と言ってもその活動分野は、相当多岐にわたっている。筆者の心理臨床は、病院臨床が主な舞台であった。そこでは、統合失調症はもとより、入院中のさまざまな精神疾患を対象に心理療法を試みてきたが、アルコール依存症の治療スタッフに参加したことによって内観と出合うことになった。 そして、初めの数年はアルコール依存症者本人への分散日常内観を実施していた。 その後、個別内観療法という形態で集中内観を実施するようになったところ、家族が内観を希望するようになった。さらには、神経症、心身症と対象が広がって、不登校など子供の問題にまで内観の適用が広がっていった。そうこうしているうちに、時代は学校の場にスクールカウンセラーが派遣されるようになった。病院に勤める傍らで学校へ行ってみると、いつの間にか道徳の授業を担当することになって、子供を対象に学級内観を試みたところ、教師や保護者の中に関心を示す人が現れた。おそらく、それが教育委員会及びその関係者の耳に入ったのであろう、A県の教育センターは、教師対象の夏期講座を毎年開催しているが、その上級コースに内観を指定してくるようになった。そこでは、主催者と受講者の希望で講義だけでなく実習までも組まれようになった。 という次第で、筆者としては病院臨床だけでなく、教育臨床においても内観の効果に一定の手ごたえを感じていた。当日のシンポジュウムでは、「心理・教育臨床」を通して経験してきたことを中心に述べた。 ところで、話は変わるが、冒頭に引用した鈴木大拙(1870~1966)の言葉は、「東洋的な見方」(岩波文庫)の58頁に見つけたものである。同じ頁の中で鈴木は「外向的研究心の功績は、医学の面に最も顕著に見られる。近代人の平均寿命が一般に上昇してきたのは、何といっても、医術の力である」と西洋の科学文明が生んだ医学を評価しつつ、東洋的なものへの評価も忘れていない。というのは、61頁にきて鈴木はこう述べる。 「東洋は母性愛を理想とし、西洋は父性愛が好いという風になっている。-中略―が、ある点から見ると、母性に対する敬愛の心情は、東洋のほうがずっと優れている」と主張するのである。その主張に耳を傾けるならば、東洋の文化から生まれた内観が「母親に対する自分」をみつめることを重視したことは、よく頷けよう。 前節の「はじめに」でも述べたことであるが、内観は今や医学の舞台だけでなく、学校・家庭・職場にまで持ち込まれ、その適用の範囲を広げている。その際に、それぞれの分野で「内観を適用する」ということは一体どのようにして可能なのか、具体例を示しつつ、内観のエッセンスについても触れてみたい。 Ⅲ. 内観の適用をめぐって 当日のシンポジュウムにおいて、石井光(1))は「学校における内観」、竹元隆洋(6))は「家族の病理と問題行動」、芹沢幸彦(4))は「内観療法の職場における活用」と題して各分野における内観の適用が紹介された。詳細は、大会論文集と本誌に掲載された各氏の論文に譲ることになるが、以下にはそれを踏まえて筆者の経験してきたことを述べることにする。 1.学校への適用 「2004年度、集中内観をした青山学院大学の学生は、約30名であった」と石井は報告しているが、おそらく、夏季休暇などの学校行事のないときを選んで、しかも学校以外の場所(たとえば、内観研修所など)で各自の自由意志で内観に参加したのではないかと思われる。公立の小中高の生徒に学校の中で内観してもらうことは難しいだろう。 確かに、かつて学校の中に内観室を作って集中内観を実施する高校教師がいたことはある。1981年10月27日のNHKテレビが放映した「無処罰の学校をめざして」という番組に取り上げられた池上吉彦がその人である。ほぼ原法通りに内観を学校の中に取り入れたことは、画期的な出来事であった。けれども、それは誰にでも出来ることではなかった。1週間もの間、他の行事を中止して生徒に内観してもらうことは、容易なことではないからである。学校の行事を中断させることなく、内観を取り入れようとすれば、石井のように集団教室内観や記録内観(宿題形式も含む)というような変法にするしかないように思われる。筆者もまたスクールカウンセラー(以下、SCと称する)として勤務していた中学校で「内観的授業」を試みたことがある。 【内観的授業の試み】 平成7年から始まったSC派遣事業に、筆者は平成8年から参加し、2校目の中学校に派遣されとき、道徳の授業を担当することになった。 最初の中学校では、不登校や非行など、いわゆる問題をもった生徒に対する関わりが中心であった。ところが、2校目の中学校では、問題を持った生徒はもとよりであるが、そうでない普通の生徒との関わりも発生するようになった。ことの経緯を述べるならば、次のようである。 <ことの経緯> 筆者がPTAの役員をしていたときのことである。新興住宅地ということもあって、横のつながりが希薄であった。そこで、父親たちの有志が集って「オヤジの会」を立ち上げた。その会ではいつの頃からか、ゲストを招いて懇談するようになった。その日のゲストにはこの地区の教育長が招ねかれていた。私的な会合なので、会員もゲストも言いたい放題、自由に意見を交わす雰囲気が出来ていた。その席で、ゲストの教育長がSCとしての筆者に向かって口調こそ穏やかではあったが、こう言ってきたのである。 「あなたがSCとして不登校やいじめなど、問題を抱えている子どもたちを援助していることは私の耳にも入っており、良くやってくれていると思う。だけど、学校にはその他大勢の、いわゆる普通の子どもたちもいるし、数で言えば、そっちの方が多いんだよ。教師は問題児だけでなく、普通の子達のことも考えてやっているが、あなたはSCとして、その他大勢の子どもたちに対して何をしてきましたか?あるいは、何か出来ることはありますか?」と。 SCとしての弱点をつかれて筆者には返す言葉がなかった。衝撃は深刻であった。 「その他大勢の普通の子にSCとして何が出来るか?」 そのとき以来、筆者にとって大きな課題となった。その課題を背負ったまま、出勤日に担当校のI中学校に出掛けていった。すると、その日、校内では模擬授業が行なわれていた。翌週に市教委の視察が予定されていたためにそれに備えて、教師全員で模擬授業を参観してあとに、カンファレンスが行なわれることになっていた。筆者にも声がかかったので参加することにした。対象となった授業は道徳であった。筆者はSCの立場から思いつくままに意見を述べた。そのとき述べた意見が教務主任に印象が深かったらしく、SCを道徳の授業にT.Tとして活用できないか、という案を出してくれた。筆者がその案を快く引き受けたのは、例の教育長に与えられた課題を背負っていたからである。ところが、筆者には教員資格がない。そこで教務主任は教頭と一緒に知恵を絞ったらしく、T.Tという形態をとって、道徳の授業を担当することになった。 授業の方法については後述することにして、結論を先取りして言えば、内観を取り入れることにしたのである。そして、その授業を担任が「自分探しの旅」と命名してくれた。このようにして、内観的授業は始まったわけであるが、目的にしたことを箇条的に示せば、3つである。 ①学校の特徴と言えばそうなのであるが、生徒は個人単位でよりも学級単位で行動することが多い。そこで、SCとしては、生徒個人を理解する上でも先ずは「学級」を理解する必要があった。 ②授業においては、集団心理療法の手法を用いて、集団内観を念頭に置きつつ、学級全体の精神衛生に寄与することをもねらいとした。 ③レポートとして提出された、いわゆる内観的記録を担任教師と共有することによって、担任の生徒理解の一助になるよう努めた。 以上の3点を念頭に置きつつ、具体的に授業に臨んだが、SCによる授業とはどういうものになるのであろうか、正直言って、当のSC自身でさえ、当初は、見当がつかなかった。考えてばかりいても始まらないので、1年生のあるクラスを対象に、はじめと2回目は、担任の授業を見学させてもらいつつ、オブザーバーとして参加した。 3回目と4回目になって、担任が見守る中、SCが道徳の授業を担当した。4回目には「自分探しの旅」というタイトルが担任によって命名されているが、SCも生徒もそれが大いに気に入ったので、5回目以降、全学年の全学級に拡大することになった時にも、そのテーマで続けることにした。 授業の具体的な内容について言えば、各学年はもとより,各クラスによって話す内容は、まったく同じと言うわけには行かないが、課題は統一し、同じにした。 その課題とは、こうである。 「お父さんでもいいけど、お母さんに手紙を書いてみよう。何か、都合があって、お母さんに対して書き辛い人は、お祖母さんとか、お祖父さん、あるいは親戚の人とか友人でもいいです。手紙を書くに当たっては、次の三つ観点から書いてください。たとえば、お母さんに対して①してもらったこと、②して返したこと、③迷惑をかけたことを思い出し、小学校の一年生から順になるべく具体的に調べて書いてください」と。 思春期のおもしろさは、与えられた課題を逸脱したり、必ずしも故意や悪意でなく、課題の手順を変えたりすることである。 「お母さんの立場に立って調べてみてください」という当方の教示に対して、「母から自分へ」と題して書いた生徒がいて、それがまたおもしろいので、次のクラスに採用してみたところ、相手の視点から自分自身をみつめており、有意義に思われた。 結果(レポートにした記録内観)を以下に示すことにする。ただし、紙数の都合があって、ここには、ごく一部を紹介するにとどめたい。 例1. 中学3年・女子・U子 【自分から友人のK代へ】 ①K代が私を信用してくれてありがとう。真剣にいろいろ相談にのってくれてありがとう。K代はとてもやさしいから私も人の悪いところをみるよりも、良いところをみるようにしょうと心がけるようになったよ。2人で遊ぶのはとても楽しい。K代は私を楽しませてくれたの。秘密とかは、ぜったい守ってくれるから、一番信用ができる友達だと思っている。忘れ物を貸してくれたね。U子(私)は、大きい声ですぐにいろいろ言ってしまうけど、K代は私に「Uちゃん」と注意をしてくれたね。悪いところとかも指摘してくれた。おかげでいろいろ気をつけるようになったんだよ。おしゃれとか服も教えてくれた。カラオケ、好きにならなきゃ。これから困るから、練習しなくちゃと気を使って、カラオケにさそってくれたね。遊びに行く時、服貸してくれてありがとう。 ②(あなたが)困った時に相談にのってあげた。お菓子を作った時、あげた。面接用の服を貸してあげたよ。勉強を教えてあげた。 ③「いいよ」と言っておきながら、塾があって急に行けなくなっていいかげんでごめんね。選択家庭科のとき材料とか、たまに忘れてごめんね。借りたもの返すの遅くなってごめんね。気分やで、機嫌がいい時と悪い時の差が大きすぎてゴメンネ」 以上が、自分から友達に宛てた手紙である。 次は、その逆の、相手から自分への手紙を相手の身になって、自分が想像して書いたものである。 例2. 中学3年・男子・M太 【母親から自分へ】 M太が生まれたばかりの時は、すぐに泣いてすごく手のかかる子だったんだよ。身体も小さく、どちらかと言えば病弱だったM太をよく病院へ連れていったことを覚えているよ。小学生になってサッカーを始めてからは病気はなくなったけど、今度はケガが多くなったね。本当に今考えてみれば手のかかる子だった。これから高校生活をやっていく上で、くれぐれもケガや病気に気をつけてね。 次には、結果について若干の考察を加えることにする。 目的1は、授業に参加したことですぐに達成された。 目的2については、特別教室を用意してもらい、生徒にはクラス全員の顔が見える形態、つまり円陣に着席させたことによって、授業への意欲を刺激したらしく、個々の発言が増えた。「あいつがこんなことを考えていたとは知らなかった」とか、「自分のクラスが好きになった」という感想を寄せた生徒もいる。 目的3は、生徒の記録内観を保護者との個人懇談に活かした担任もいた。 たとえば、中学2年生の女子は、急に母親に反抗的なり、最近では口も利かなくなった。母親は心配になって、担任に相談した。相談を受けた担任が対応に困ってSCに助言を求めてきた。なんというタイミングのよさなのか、ちょうどその日、その子のクラスで道徳の授業を担当することになっていた。全員に同じ課題を与えたことは言うまでもないが、「母親に対する三項目を調べてみよう」という課題に対してその子は真剣に取り組んでくれた。レポート用紙に記録した内容を示すと以下のようである。 <してもらったこと> 私はお母さんに、とってもたくさんの愛を毎日貰っています。だから私はいつも元気でいられます。つらくたってお母さんの愛のおかげで、私は笑顔でのりこえられます。 <して返したこと> 私は毎夜お母さんに、今日あった出来事を話すよね。ムカついたコト、うれしかったコト、感動したコト、疑問に思ったコトとか色々。何でかって、私はお母さんと1秒でも長く一緒にいたいからだよ。気付いていた? <迷惑かけたこと> 前に「私なんてなんで生んだの?」ってケンカした時言ったよね。本当にゴメン。お母さんの立場に立ったら、どんなにつらかったか少しわかつた。ごめんね。私アトピーがひどくなっちゃうと「なんで生まれてきたんだろう」って思っちゃうんだ。でも最近はこういう風に考えることにした。私がアトピーなのは、神様が私に与えた試練。私には乗り越えることができるから、神様がアトピーにしたんだって。だから、今のアトピーの傷や傷跡は私の誇り。運命と戦っている私の誇り。もう絶対言わないね「何で生んだの?」なんて…。 SCが本人の了解を得たうえで、担任はその子のレポートを母親に見せることにした。これまで娘の反抗的な態度に困惑していた母親であったが、それを読んだ後、涙を浮かべ、「あの子がそんなふうに考えていたとは知りませんでした」と喜びを隠さなかった。 わが子の心を知って、母親は落ち着きを取り戻し、その結果、親子の間に対話が復活することになった。もとより、こんなふうにすべての子がうまくいくわけではないが、内観的授業によって親子の関係が改善されたことは少なくない。実際、別のケースではあるが、子どものレポートを読んだ母親が内観研修所へ集中内観をするために出掛けたこともある。内観的授業が親子の関係の見直しをもたらしたということは、それはある意味で「家庭への適用」に繋がったとみてよいし、副産物であった。 ところで、内観的授業の副産物は他にもある。たとえば、生徒同士の仲たがいが回復したケース、あるいは、ある教師が苦手にしていた生徒の内観レポートを読んで、愛着を感じるようになったこともある。 2、家庭への適用 先に内観の学校への適用について述べたが、「家庭への適用」というとき、ふつうは竹元が述べるように、「家族の病理と問題行動」が対象になるであろう。竹元はシンポジュウムにおいて「加害者の生育歴」と「被害者の生育歴」に注目して内観の適用を論じているが、それは従来、家族内観として試みられてきた方法のように思われる。本誌はその創刊号(1995)の中で、「家族と内観(7))」について特集を組んでおり、筆者(2))も心理臨床の立場から若干の考察を試みたことがあるので、ここに繰り返すことは控えよう。 ただ、今回、竹元の発言で注目したいのは、「予防医学」として内観を適用することが提言されていることであった。今後の内観が展開していくとするならば、その視点は大切なことのように思われる。石井の学校内観や芹澤の企業内観も「予防」あるいは「精神衛生」に寄与する活動としてみることができよう。そして、筆者が内観的授業として試みた学校での方法は、不登校や問題行動を起こした生徒ではなく、教育長の言う「その他大勢の普通の子」を対象にしたと言う意味において、まさに「予防心理学」としての働きをしたのではと思われるのだが、果たしてどうだろうか。 いずれにしても、いわゆる普通の家庭の中に内観が導入されることは、この時代にあって必要なことのように思われる。カルチャーセンターや公民館などを利用して、たとえば、ラジオ体操のように、地域の中で内観を浸透させる方法はないものだろうか。 当日のシンポジュウムの際に、竹元の提言を聞いて連想したことである。 Ⅳ. まとめに代えてー内観のエッセンス(3)) 内観をそれぞれの分野で実践するとは言っても、集中内観を原法通りに行なうことは難しい。そうなると変法で行なうことになるが、その際、内観のエッセンスだけはおさえておかなければならないだろう。 周知のように内観のルーツを辿るとき、身調べに行き着く。その身調べは浄土真宗の一派に伝わる行であった。「真宗入門」を著したケネス・タナカによれば、浄土真宗とは、浄土教の真のエッセンスの意味だと言う。浄土教は8世紀に日本に伝わり、それから約400年後に親鸞の教えに基づき,浄土教の一つである浄土真宗が生まれた。そして、略して日本では『真宗』,欧米では“Shin”とも呼ばれているとのこと。 浄土真宗の入門書としてアメリカで好評を博しているというこの本の中で,筆者が一番印象深く思ったのは,「海で漂流した船乗り」の話であった。著者のケネス・タナカはその話を浄土真宗の教えの核心を伝えるために紹介しているが,筆者には心理療法としての内観の治療観,あるいは内観のエッセンスとして読めた。 そのたとえ話とはこうである。 「一艘の船が,ある熱帯の島から出航しました。陸を遠く離れて何時間も航海した頃,一人の船員が誤って海に落ちてしまいました。他の乗組員は誰もそのことに気づかず,船はそのまま航行してしまいました。水は冷たく,波は荒く,真っ暗闇でした。大海の真っ只中で,その男は沈まないように死に物狂い足をばたつかせます。 やがて海に落ちる前に見た島に向かって泳ごうとするのですが,すでに方向感覚を失っており,方向が正しいかどうか確信が持てません。船乗りですから泳ぎは上手なのですが,腕も足もすぐに疲れ果てて,胸も苦しくなって喘いでいました。大海の中で迷い完全に孤独になってしまった男は,もうこれでおしまいかと思いました。絶望の中,男のエネルギーは砂時計の砂のように消耗していきました。顔を打つ海水を飲み込んで息ができなくなり,体が海の底に引きずり込まれるような気がし始めています。その時,海の深淵から声が聞こえてきたのです。『力を抜きなさい。力むのを止めなさい。そのままでいいのです。南無阿弥陀仏』その声を聞いた船乗りは,自分の力だけでむやみに泳ぐことを止めてみました。夏の昼下がりに裏庭のハンモックの上でのんびりするように,くるりと仰向けになって足を伸ばしてみました。すると,力まなくても海が自分を支え浮かせてくれることを知り,大喜びしたのでした。―中略―助かったと知り喜んだ船乗りは心から感謝しました。そして,『本当ははじめからずっと大丈夫だったのだ』ということに気がついたのです。ただそれを知らなかっただけなのです。海はまったく変わっていないのに彼の考え方が変わったので,この船乗りと海との関係も変わったのでした。海は危険で恐ろしい敵から,彼を支え守ってくれる友となったのです」と。 内観面接に携わっていると、この船乗りのようなケースに出会うことが少なくない。 以前に拙著で「いない いない ばぁ」を内観のエッセンスとして指摘した際に取り上げた事例があるが、ここにも掻い摘んで紹介することにしよう。 20代の青年が内観にやってきたときの話である。母親は統合失調症と診断されて青年が幼い頃から今なお入院中であった。青年の内観は初日から暗礁に乗り上げてしまった。 「入退院の繰り返しで母はほとんど家にいなかった。だから,お世話になったことはなかった」と抵抗するだけでなく、「死んでいればまだしも,生きてはいるがほとんど生ける屍のようで,母に抱かれた記憶もなければ,甘えた経験もない」とまで言い放ったのである。そのため,母親から始める通常のテーマとは違う別メニューでの内観が始まった。しかも,別メニューは,テーマだけではなかった。食事についても,たとえば「そばアレルギー」「生野菜は匂いで吐いてしまう」「牛乳と卵も受け付けない」などといろいろと注文が多く,別メニューが必要であった。別メニュー,つまり特別メニューがこの青年の内観のキーワードであった。 ところが,内観4日目のふた廻り目になって,「幻聴に悩まされながら,ブツブツと独り言を呟きながら台所に立って僕の弁当を作ってくれていました」と報告して後,泣き崩れてしまった。 3日目の内観は担任の先生に対する自分調べに入った。1年生の運動会のとき,母親は退院したばかりで運動会には来てくれなかった。父親は,早朝に出張へ出掛けてしまった。プログラムは親子の二人三脚になっていた。級友たちが母親に手を引かれて嬉しそうに入場門に集まる姿を見て,その場にいられなくなった。そして,トイレに逃げ込んだ。担任の先生が必死になって探してくれた。「ぼくにはお母さんなんかいないもん!」と泣きながら言った。すると,担任の女先生がやさしく抱きしめてくれて,母の代わりに一緒に走ってくれた。その場面を屏風の中で思い出したとき,どういうわけか,前述の弁当を作ってくれた母親の姿が同時に甦ったのである。つまり,内観中の食事も他の内観者とは違う特別メニューが出されたが,女先生もまた特別メニューとなって母親代わりを買って出たのである。それによって,現実の母に求めて得られなかった「母性」に触れることができた。そして,その「母性」は,病んではいたが実母にもあったことを内観で想起したというわけである。 つまり、自分には母からの愛情は与えてもらえなかったと思っていた青年が、内観をしていて「自分はちゃんと母親から愛されていた」ことに気づいたのである。これはちょうど、海で漂流した男が「本当ははじめからずっと大丈夫だったのだ」と気づいたのと同じ心境に酷似しているように思われる。 参考文献 1) 石井光:学校における内観 第28回日本内観学会大会論文集 2005,5,20 p18 2) 真栄城輝明:家族と内観をめぐってー心理臨床の立場からー 内観研究第1巻第1号 1995 p23-32 3) 真栄城輝明:心理療法としての内観 朱鷺書房 2005,3,25 p77 4)芹澤幸彦:内観療法の職場における活用 第28回日本内観学会大会論文集 2005,5,20 p20 5) 鈴木大拙:東洋的な見方. 上田閑照編 岩波文庫 2000,10,16 p58 6) 竹元隆洋:家族の病理と問題行動 第28回日本内観学会大会論文集 2005,5,20 p21 7) 巽信夫:「家族と内観」その今日までの歩みー癒しとしての立場からー 内観研究第1巻第1号 1995 p3-11
―書評―東洋思想と精神療法 ―東西精神文化の邂逅― 川原隆造・巽信夫・吉岡伸一[編](日本評論社) 真栄城 輝明(大和内観研修所) 編者・川原隆造によれば、「今世紀の医療における大きな潮流として統合医療が注目されつつある」ようだ。そういった時代に、本書が出版されたことはタイムリーなことである。 統合医療は、前世紀に飛躍的な発展を遂げた近代西洋医学の限界が指摘されるなかで、その西洋医学を代替、相補、統合しなければという反省から生まれたことは周知のことだろう。 そこで、注目されるようになったのが、伝統医学である。今、世界の関心は東洋思想を背景にわが国で生まれた内観療法と森田療法に向けられている。とりわけ内観療法は、2002年8月に横浜で開催された第12回世界精神医学大会において講演とシンポジウムまで企画され注目を浴びたことは、内観研究の第9巻で堀井茂男が伝えている。そのときの熱気が2003年10月に第1回国際内観療法学会(第6回日本内観医学会と併催)を開催させるエネルギーになったように思われる。今回、本書の頁をめくりながらそう思った。両大会に出席した読者であれば、当日の、国内外から多彩な学者や臨床家が参集して繰り広げられた活発な論議の場面を再び味わうことができよう。あるいは仮に、出席できなかった読者にしても、時代が内観に求めているものに触れることができるはずである。 たとえば、第1章の金光寿郎は放送ディレクターとしてNHKの「心の時代」の担当者として有名であるが、自分自身の内観体験を踏まえてこう述べている。 「現在の自分の元型である小さい頃の自分の意識を掘りおこすことによって、自己中心の意識の歪みが見えてきて、懺悔とともに自然に歪みが矯正され、正しく全体が見えるようになる」(8頁)と。金光の「東洋思想史と内観」には、仕事柄、真髄を究めた人たちとの出会いを通して吸収してきたと思われる至言が随所にちりばめられている。 第2章の長山恵一と北西憲二の論考は、第6章の村瀬嘉代子とセットにして読んだ方がよいだろう。そうすることでシンポジウムの臨場感を味わうことができるからである。 第3章は中国における内観療法の導入と展開が紹介されているが、彼国の精神科医の手にかかると内観の味付けがこんなにも変わってしまうのか、と日本の読者が腰を抜かして吃驚仰天する様子が目に見えるようである。しかし、それは読んでみてのお楽しみとしよう。 第4章に登場したD.K.レイノルズは、西洋の精神療法はもとよりであるが、森田と内観にも精通した、まさに東西精神文化の邂逅を語らせるのにこれ以上の適任者はいないはずなのに、どういうわけか本書の中では読み辛い章となっているのが残念だ。今回、氏の論考は訳者を得なかったことが惜しまれてならない。日本語になっていない箇所が気になった。東西精神文化の邂逅は、著者と訳者の双方がそれ相当のエネルギーを出し合ってこそ成就するものだ、ということを反面で教えてくれている。それに比べて、第5章を担当した韓国の精神科医、白尚昌の日本語には感嘆させられた。内容も深く、読みながら引き込まれてしまったからである。本書に、巽信夫の終章は欠かせない。読者は川原の序の後、そこを先に読んで貰っても良いと思う。簡にして要を得た章なので、本書を俯瞰するのに好適であろう。(敬称略) 【本文は、「精神療法」(金剛出版)Vol.31,No.3に掲載された原稿に加筆・修正を施したものである。】
2006.9.23-26 WACP2006Congress Beijing S-III-22: Culture-unique psychotherapy developed in Asia.About Naikan Therapy “Naikan therapy in Japan: Introspection as a way of healing” MAESHIRO Teruaki From Yamato Naikan Center in Nara, Japan Introduction Hello, my name is Teruaki Maeshiro and I am a clinical psychologist. After twenty-four years working in Higashi Kasugai Hospital in Aichi Prefecture, I took my current position as the third director of the Yamato Naikan center in Nara, a place to which the founder of the Naikan method, Ishin Yoshimoto, had devoted his entire life. Yoshimoto was enlightened on November 12th, 1937. He wished to let all the people in the world know this great joy. In Japan, the method has now evolved beyond the religious world and is now used in the industrial, educational and medical worlds as well as correctional institutions across the country. Internationally, Naikan has also gained popularity and now has several established centers across the globe. As Yoshimoto wished, Naikan has spread throughout the world. In this symposium, I will address four points to describe Naikan therapy: 1) Naikan and its founder Yoshimoto, 2) the brief history of Naikan, 3) the system of Naikan, and 4) the internationalization of Naikan. 1) Naikan and its founder His childhood: The founder of Naikan, Ishin Yoshimoto, was born as the third boy of five siblings in Yamatokōriyama, Nara Prefecture on May 25th, 1916. His father, Ihachi, was an eager member of the village assembly while running a fertilizer business of his own. Little Ishin started to learn calligraphy in his junior high school years and later became an excellent calligrapher. Although his first name, Ishin, was actually his pen name, and his real name Iinobu, he continued to use his pen name as his real name in his later years. He was a top student and excelled in all of his classes except for physical education. He was gentle and compassionate. One day during his first grader year, he cried all that night upon hearing his teacher had to leave school because of an illness. The next year, his younger sister Chieko died at the age of four. After this tragic event, his mournful mother became absorbed in Buddhist devotional exercises. Young Ishin accompanied his mother on many of her temple visits. In retrospect, we can see how Ishin’s formative childhood experiences played a crucial role in the formation of his personality and life philosophy later on. The road to Naikan: In his youth, meeting his future wife, Kinuko, also had a significant influence on his religious devotion. Falling in love, he wondered “What should I do to be loved by her?” By the time they met, Kinuko is said to have already obtained enlightenment. Ishin loved her so much and wanted to marry her that he decided to follow the same path that she did. Against his father’s opposition, he tired Mishirabe, the prototype of Naikan, to obtain enlightenment. He failed three times, before he finally succeeded on his fourth attempt. From this experience, he was inspired to develop Mishirabe into something simpler that could be used effectively by all people. This is how Naikan was born. 2) The brief history of Naikan 1937: At around 8 p.m. on Nov. 12th, Ishin Yoshimoto, the founder of Naikan, is said to have obtained enlightenment through Mishirarabe, the prototype of Naikan. 1941: Yoshimoto refined Mishirabe and renamed it Naikan. 1953: Yoshimoto opened his own Naikan center in Nara. 1968: The three questions (themes) of Naikan were fixed into their current form. 1978: The 1st annual meeting of the Naikan Association (currently called the Japan Naikan Association) was held in Nara. 1980: The 1st Naikan Seminar was held in Austria. 1985: The Naikan Training Institute Association was established. 1988: Ishin Yoshimoto passed away at the age of 73. 1991: The 1st International Naikan Congress, held every three years, was held in Tokyo. 1992: Naikan therapy was presented (lecture-only) at the 7th East China Mental-Medicine Exchange Society in Shanghai. 1993: The Naikan method was clinically introduced into China at Shanghai Mental Health Center. 1998: Japanese Naikan Medicine started. 2003: The 1st International Congress of Naikan therapy, hosted by the Tottori University Faculty of Medicine, was held in Tottori Prefecture. 2005: The 2nd International Congress of Naikan therapy, hosted by the Shanghai Mental Health Center, was held. 3) The System and Procedure of Naikan Intensive Naikan There are two forms of actual practice in Naikan. One is called intensive Naikan, which is a week long program, and the other is daily Naikan. Yoshimoto said “Intensive Naikan is like an electric pole and daily Naikan is like wires that connect the poles. Without the wires between the poles, even if you built many poles, the electricity can’t flow.” In other words, intensive Naikan is a basic training and daily Naikan is the application to everyday life. After the basic training is completed and one acquires the Naikan way of thinking, one is able to continue to use it on a daily basis by taking a few moments each day. It is best to be able to do daily Naikan regularly. Here, I will outline the basic procedure used in intensive Naikan training. 1. The setting: The practitioner should sit comfortably in the corner of a quiet room, walled off by a byobu folding screen. The byobu cuts off the outside world and protects the practitioner from any visual stimulation. This unique setting makes it easier for a person to explore their inner world. 2. The code of conduct: The practitioner is required to remain within the walled-off section at all times, except to use bathroom. One must also have meals here, which the counselor will bring three times a day. Reading newspapers, watching TV, and listening to the radio are prohibited. Using the telephone or talking to others is also not allowed. Drinking alcohol is of course strictly prohibited, although smoking is permitted in the designated smoking area. 3. The daily schedule: The practitioner gets up at 5:00 am in the morning and goes to bed at 9:00 pm. Every one or two hours, a Naikan counselor visits the practitioner and conducts a short interview. This usually lasts five to ten minutes and is held eight or nine times a day for the duration of the week. 4. *The question-association-search method: Unlike free association in psychoanalysis, Naikan has strict instructions to help you to examine yourself by exploring the relationships with the important people in your life. There are three set questions you should always ask yourself regarding them: (1) What did you receive from a specific person? (2) What did you return to that person? (3) What troubles, worries, and difficulties have you caused that person? Using these questions, the practitioner examines themselves in their life relationships. I personally call this unique approach the question-association-search method. 4) The internationalization of Naikan Its therapeutic structure and cultural differences Originating from Japan, Naikan is heavily influenced by Japanese culture. In its setting, the typical Naikan room in Japan is filled with Japanese things, such as the byobu folding screen, tatami flooring mats, and paper sliding doors. However, these things are not necessarily essential to the Naikan therapeutic process itself. For example, in Japan, the practitioner should sit in proper seiza position during the interview. In other cultures, however, it may be very difficult to sit in such a position for extended periods of time. In this case, a chair may be permitted during interviews. Naikan questions and cultural differences According to Naikan methodology, one is supposed to recollect one’s relationships with specific people, usually starting with one’s mother. Once when I visited Germany, however, Professor Wolfgang Blankenburg from Philipps-Univesität Marburg told me that “Germans generally think the father has a more crucial role than the mother. So in this country, the father might be the first person to be reflected upon instead.” This idea left a strong impression on me. As already mentioned, the method has the three set questions. On the advanced stage, however, there is a fourth question regarding lying and stealing: What have I stolen in my life? How have I deceived people? By examining one’s life through these questions, one comes to be faced up with intense feelings of guilt, which ultimately leads to the realization of the transience of life. However, this may not always be the case in different cultural contexts. In the 2nd International Congress of Naikan Therapy in China last year, for example, Professor Wan Lu-cheng pointed out that “Here in China, people may find it difficult to deal with their feelings of guilt the same way Japanese people do.” In terms of the internationalization of Naikan, these are just some of the cultural differences that need to be considered seriously. 5) Final comment Now that Naikan is going beyond its cultural boundaries, some components of the method might need to be changed. Some important questions arise here. To what extent should adaptation be permitted? Whatever changes may happen, can Naikan still be called Naikan? Given this, it is necessary to ponder what the essence of Naikan is all about. Doing Naikan is about listening to the innermost recesses of your soul, especially when you are broken-hearted, in a time of adversity, or in great tribulation. This is what I think is the essence of Naikan. *Maeshiro T. (2005). Naikan as a type of psychotherapy. Osaka: Tokishobo.
2006.9.23-26 WACP2006Congress Beijing S-III-22: Culture-unique psychotherapy developed in Asia. 内観療法の紹介 “Naikan therapy in Japan: Introspection as a way of healing” 真栄城輝明 (大和内観研修所) Ⅰ、はじめに 演者は臨床心理士である。24年間の病院内観臨床を経て、内観法の創始者・吉本伊信師が内観指導に明け暮れた内観研修所にて3代目の所長として内観面接に従事している。 1937年11月12日、宿善開発を果した吉本伊信は、「この悦びを世界中の人々に伝えたい」と願った。世界とは文字通りに国境を越えた諸外国のことであるが、国内においては、宗教界にとどまらず、矯正教育界・産業界・学校教育界・医療界など、各分野への普及となって実現している。 本シンポジウムの企画者が演者に求めてきた課題は、「日本で生まれた内観療法について紹介してほしい」ということなので、以下に示す項目について述べてみたいと思う。 1, 内観と吉本伊信 2, 内観の歴史 3, 内観の方法 4, 内観の国際化に向けて Ⅱ、内観と吉本伊信 【生い立ち】 内観の創始者・吉本伊信は、1916年5月25日5人兄弟の3男として、奈良県大和郡山市に生まれた。父・伊八は、肥料商を営む傍らで、村会議員をつとめ、学校の父兄会の役員も熱心に引き受けていた。伊信少年は中学時代から書道を学んで、書家を目指した。伊信(ISHIN)という呼び名は、書家の号であり、本名は伊信(INOBU)であるが、晩年は「ISHIN」で通した。少年は、勉強は良くできて、いつも級長をしていたが、運動は不得意であった。 【内観との出合い】 元々、伊信は優しい性格の持ち主であった。小学校1年生のとき、担任の先生が病気のため学校を辞めると聞いて、夜中にひとりで泣いている。2年生のとき、ひとり娘の妹・チエ子が4歳で他界してしまった。可愛い盛りの娘を亡くして母親が嘆き悲しんで、求道・聞法・読経勤行に打ち込む姿を傍らで見て育ち、お寺参りにも同行した。多感な少年は、母親の影響を強く受けて、信仰心が芽生えたと思われる。そして、青年期になって、キヌ子夫人との出会いが決定的となった。 「好きになった人に尊敬されるには、どうしたらよいか?」 伊信青年は、惚れたキヌ子と結婚したいと思った。そのためには、すでに転迷開悟の境地に達していたキヌ子のように、伊信は自分も又道を求めることにしたという。 そして、当時、「身調べ」と呼ばれていた内観の前身に挑んだ。父・伊八は息子の「身調べ」には、反対であった。伊信は父の目を盗んで再三、それに挑戦するが、3度の挫折を経験している。苦難の末、漸く4度目にしてついに「転迷開悟」を果たしている。吉本伊信が内観と出合うためには、祖母・母・妻の存在は欠かせなかった。 Ⅲ,内観の歴史 1937, 11月12日午後8時、吉本伊信、身調べによって宿善開発。内観普及の開始。 1941 内観法という言葉が使われ、ほぼ現在の方法が確立。 1953 奈良県大和郡山市に内観道場(現在の大和内観研修所)を開設。 1968 内観3項目が確立。 1978 内観学会(現在の日本内観学会)第1回大会の開催。 1980 オーストリアにて第1回内観研修会開催。 1985 内観懇話会(現在の日本内観研修所協会)発足。 1988 吉本伊信、永眠(73歳) 1991 第1回内観国際会議が日本国・東京で開催(以後3年毎に日欧で開催) 1992 第7回華東地区精神医学大会(上海)にて内観療法が紹介される。 1993 上海精神衛生中心に中国で初めての内観療法室が設置。 1998 内観医学会(現在の日本内観医学会)が発足。 2003 第1回国際内観療法学会が日本国・鳥取大学医学部の主催で開催。 2005 第2回国際内観療法学会が中国・上海精神衛生中心の主催で開催。 Ⅳ、内観の方法 【集中内観】 内観には日常生活の中で行う「日常内観」と「集中内観」がある。吉本は集中内観を電信柱に、日常内観を電線に喩えて、両者は車の両輪のように大切なものだと述べている。あるいは、集中内観を基礎訓練だとするならば、日常内観は応用編ということになる。集中内観で身に着けた方法を日常生活の中でも一定の時間、内観を出来るようになることが理想だといわれている。ここでは、基礎訓練としての集中内観について述べる。 1, 物理的環境 静かな部屋の片隅に屏風が立てられて、内観者はその中に籠ることになる。トイレ、入浴以外は、屏風のなかで静かに過ごす。食事も屏風の中でとることになっている。屏風は内観者と外界を遮断するだけでなく、外界から内観者を保護する、というはたらきをしている。内観者は、食事や風呂など、日常生活における一切の雑用から解放されて、自分を見つめることだけに専念できる。 2, 行動の制限 屏風の中では楽な姿勢で過ごしてもよいが、原則として、内観中は屏風の中で過ごさなければならない。面接時だけは正座の姿勢で面接者に内観した内容の一部を報告する。新聞・ラジオ・テレビはもとより、電話などで外界と連絡する事もできない。就寝時は、屏風をたたんで、その場に布団を敷いて休む。同室に他の内観者がいても、お互いの私語は禁止されている。内観室は禁煙になっており、喫煙者には喫煙室が用意されている。勿論、飲酒は厳禁である。 3, 時間的条件 面接はおよそ1~2時間おきに面接者が屏風まで赴いて行われる。1回の面接時間は、5~10分程度、1日に8~9回程度の面接が繰り返される。起床は午前5時。消灯は午後9時となっている。食事は一日3食を面接者が屏風まで配膳し、終了後は下膳する。風呂の準備も面接者の仕事である。内観者は、1分1秒を惜しんで内観を続ける。 4, 課題連想探索法 内観は、自由連想法と違って三項目というテーマが設定されている。それを私は、「課題連想調査法」と呼んでいる。三項目を具体的に示せば、対象者に対する自分自身のことを調べるわけであるが、その際に、たとえば母親に対して自分自身が①「してもらったこと」②「してかえしたこと」③「迷惑をかけたこと」というふうに、三つの視点からみていくのである。 Ⅴ、内観の国際化に向けて 【治療構造と文化差】 周知のように、内観には日本文化で生まれた小道具が使われている。たとえば、畳、 屏風、座布団、襖あるいは障子、お膳などである。それはしかし、果たして内観に欠くことのできないものなのか?国際化を考えてゆくとき、すぐに直面する問題であろう。 たとえば、外国から内観に来た場合、正座の姿勢が出来ないことが少なくない。実際、中国からの内観者を迎えたとき、ひざを崩してもらって面接したことがある。ときには椅子を持ち込んでの面接になることもある。ヨーロッパでは屏風の変わりに衝立を屏風代わりにしているようである。 また、内観の内容について言えば、たとえば、対象人物を選定する際、日本では、まず母親が優先されることが多い。けれども、かつて、ドイツを訪問したとき、マールブルグ大学のブランケンブルグ教授が私的な会話の中で「ドイツでは、まず父親が重要なので先に調べ他方が良いかもしれません」と語ったことが印象に残っている。 【内観のテーマと文化差】 先述したように、内観には三つのテーマが用意されている。三つのテーマの他にも、「嘘と盗み」というテーマがある。これらのテーマに沿って自分自身を見つめるとき、内観者は罪悪感と向き合い、無常観を観取するまでに至るとされている。しかし、果たして文化の違う諸外国において、日本と同様にそのテーマを扱って良いだろうか? というのは、昨年の国際内観療法学会の際に、上海精神衛生中心の王祖承教授が私に「中国では罪悪感というテーマを日本と同じように扱うのは難しいです」と話されたことが強く印象に残っているからである。 Ⅵ、さいごに このように、内観の国際化を考えてゆくとき、文化差については十分に考慮せざるを得ないだろう。屏風が衝立に変わったり、畳がベッドやソフアに変わるのは了解するのも難しくはないが、内観のテーマが改変されてしまうと、果たしてどこまで内観と呼べるのか、考えさせられてしまう。内観のエッセンスだけは、抑えておく必要がある。 そこで、内観のエッセンスを簡単に示すならば、「内観は、心を病んだり,不幸な出来事に遭遇したり,人生の荒波に呑み込まれそうになっておぼれかかったとき,魂の深淵からの声を聴くためにする」と言っておくことにしよう。 (英文抄録あり)
シリーズ【内観をめぐるはなし】第55回占い師の夢話 大和内観研修所 真栄城 輝明 内観者の夢に興味をそそられて、今から1300年前に栄えたという平城京を訪ねた。 内観者の夢話は後で紹介することにして、まずは平城京に関する豆知識から始めよう。 「710年に元明天皇は、都を藤原京から平城京に移しました」と切り出した白髪のボランテイア・ガイドは、社会科の元教師をしていたというだけあって、やたら数字に詳しかった。 「平城京は人口が10万人。当時は『平城』と書いて『なら』と呼んでいました。南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に別れ、さらに左京の傾斜地に外京がありました。東西軸には一条から九条大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが作られ、中国の長安(現在の西安)を真似た都市計画でした。各大通りの間隔は532㍍ほどもあり、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を東西・南北に三つの道で区切って町としたのです」 ガイドの説明に耳をすませば、まるで奈良時代にタイムスリップしたかのようだ。 「平城京の正門である羅城門をくぐると朱雀大路が北に向かって延び、その4km先に朱雀門(平城宮の正門)が建っていたのです」 臨場感あふれるガイドの話しに引き込まれて、私の好奇心がうずいた。そこで、「羅城門跡は、現在の場所で言えばどのあたりになるのでしょうか?」と訊いてみた。すると、すぐに手元の地図を開いて、指で案内してくれた。 「この北端にある朱雀門から南の方へ行ったところですから、えっと、ここ、大和郡山市野垣内町来生(らいせ)ですね」 早速、地図を片手に現地を訪ねた。「来生」という地名が好奇心を煽ったからである。行ってみると、羅城門跡は当研修所から目と鼻の先にあって、今は田んぼの中にあった。 さて、その内観者の話である。一見すると普通の女性なのであるが、内観面接で「占い」を仕事にしていることがわかった。全国各地から相談者が訪れるほどに流行っているようだが、いろんな人の悩みの相談に応じているうちに、精気を使い果たしたのか、自分自身が体調不良に陥ってしまった。人づてに内観のことを聞いて、電車を乗り継ぐこと数時間、大和郡山までやってきたというのである。 「じつは、どこの研修所にしようか占ったところ、大和郡山が出てきました」 占い師が自分のことで占いを立てようとは想像もしていなかったので驚きであった。 駅に着いた頃から予感したようであるが、研修所の建物が目に入った途端、涙があふれてとまらない。普段、滅多に涙を見せたことのない彼女が「この地には不思議な波動を感じる」と内観初日から歓喜にむせび泣いたのである。 そして、翌朝の面接で昨夜の夢を語った。 「昨夜は衣擦れの音に目を覚まし、見ると高貴な姿の女性がお供を連れて北の方向に向かって歩いて行きました。北には高貴な方のお住まいがあるようでした」と。当地に不案内の私が首をかしげていると「きっとあるはずです。昔はそこを行き来されていたと思います。調べてみてくれませんか?」と宣うので、言われるままに車を走らせた。着いたところは何と平城宮。驚天動地だ。地図によれば、朱雀大路の近くを走ったことになるが、文献によれば、平城京は郡山の手前の九条大路が終点のはずだ。ところが、2年後の今年になって十条大路が発見された。百年間、変更のなかった平城京の地図が書き換えられることになった。すると、占い師の夢話が現実味を帯びてきたのだろうか。
シリーズ【内観をめぐるはなし】第54回卒業式のはなし 大和内観研修所 真栄城 輝明 今は3月、本誌の5月号の原稿を書いている。3月は別れの季節らしく、そこかしこの学校で卒業式が行なわれている。ところで、ことの経緯については省略するが、ある高等学校の卒業式に来賓として招かれたので出席した。午前中は全日制の、夜は定時制の卒業式があった。ただそこに座っているだけの来賓なのだが、退屈するどころか感動の連続であった。たとえば、保護者の謝辞もそのひとつだ。全日制では、父親が保護者を代表してこう述べた。 「本日は、本校を巣立つ363名の子どもたちのために、かくも盛大に心の籠った卒業式を挙行いただき、ありがとうございました。ここに保護者を代表して、入学以来今日までの3年、或は4年間に、諸先生方から受けた幾多のご恩に対して感謝の辞を述べさせていただきます。 その前に、卒業生する子どもたちにひとこと言っておきたいことがあります。 時代は、情報化時代と呼ばれ、『IT長者』を生み、『この世に、お金で買えないものはない』と豪語するものが現れる時代です。若いきみたちの中には、それを羨み、憧れさえ抱く者がいるようですが、果たして、金さえあれば、望むものは何でも手に入るでしょうか? 確かに、お金は大事です。しかし、それ以上でもそれ以下でもありません。みんなもよく知っている万葉の歌人はこう詠いました。 『銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何にせむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも』(山上億良) 今も昔も親の心はちっとも変わりません。 親の願いは唯一つ、わが子に幸せになってほしい、ということだけです。 では、一体、幸せとは何でしょうか? 幸せという字をよく見てください。『辛い』という字の頭に横線が入って『幸せ』になります。つまり、辛いことを耐えてこそ、幸せがやってくることを意味しています。表現を変えれば、幸せになるには挫折を乗り越える必要があるのです。ある大手企業の人事部長いわく、『東大卒の中でも、体育会系の部活に所属した人のほうが、辛抱強いし、仕事が出来る』。東大の運動部は勝つことは稀であり、負け試合のほうが多いからだ、というのです。彼らは一勝のため相当な努力をするからです。人生は勝つよりも負けて得ることのほうが多いのです。みなさん、挫折を恐れていては成長など望めないし、チャレンジ精神だけは忘れないでください。入学時、360名だった仲間が3名増えました。きっとそれぞれにご事情があったのでしょう。その3名(越年生?)こそ、もっとも幸せの近くにいる人だ、と言って良いかもしれません。 さて、本題の謝辞ですが、(中略)親にとって『銀(しろがね)や金(くがね)や玉(たま)』をもってしても代え難い子どもたちを、ここまでに導いて、成長させてくれた諸先生方には、どんなに感謝しても足りないほどです。心より感謝申し上げます」。 定時制の母親の謝辞はもっと素朴であった。形式や儀礼にとらわれることなく、直截な表現で卒業するわが子に語りかけたのである。 「泰蔵(仮名)クン、おめでとう!小学校も中学校も完全不登校だったあなたが高校を卒業するなんて夢のようです。あなたも19歳。丁度、私があなたを生んだ年になったのですね。お父さんとは離婚になってしまいましたが、あなたを一人前にすることを目標に頑張ってきました。が、私一人では無理でした。周囲に助けてもらったお蔭です。担任の酒井先生、保健室の中村先生には特別に大変お世話になりました。お友達や先輩、みんなのお蔭で今日の卒業式を迎えることが出来たのよね。ここまで成長してくれてありがとう。今日は本当に嬉しい!」。
|
copyright © 2005 ブログ all rights reserved.
Powered by
FC2ブログ .