シリーズ【内観をめぐるはなし】第45回
「合掌」をめぐって
大和内観研修所 真栄城輝明
筆者自身もそうであったが、カウンセリングなど欧米の心理療法を学んだ面接者(セラピスト)のなかには、内観面接時の「合掌」という所作に抵抗を覚える人が少なくないだろう。
実際、日本内観学会主催の第1回内観療法ワークショップが平成元年に愛知県一宮市で開催されたとき、準備委員会は、内観実習の場面では、「合掌をしない」ことを申し合わせている。理由は、内観から宗教色を廃しなければ、臨床や教育の場では抵抗が強く、受け容れられないだろう、ということからであった。
従って、内観研修所で行う内観の場合はともかくとして、少なくとも、学会主催の内観実習では、「合掌をしない」ことにしよう、といった取り決めがなされた。
たかが「合掌」、されど「合掌」なのだ。
そもそも合掌とは何なのか?そして、合掌にはどういう意味があるというのであろうか?
哲学者で宗教問題の啓蒙家として活躍するひろさちや氏は、その著「仏教と神道」(新潮選書)のなかで、合掌が仏教と共にインドから伝わってきたことに触れてあと、こう述べている。
「インド人は、現在でも、日常生活において合掌します。合掌をして、『ナマス・テー』と言います。『わたしはあなたを尊敬します』といった意味です。『おはよう』も『こんにちは』も、『さようなら』も、すべて『ナマス・テー』です。日常生活のなかで合掌する習慣は、なかなかいいものです。できれば、日本人も、この合掌の習慣を日常生活のなかに定着させたいものです」と(79頁)。しかし、そうはいっても、この国の心理療法の世界では、今なお宗教へのアレルギーは相当なものがあって、先の取り決めを改めることはむつかしいようだ。
けれども、内観研修所において面接をしてみるとわかることであるが、合掌なしの内観面接はちょっと考えられない。なぜならば、合掌のない面接は「だしを抜いたみそ汁」をいただくようなもので、それなしでは面接の妙味が半減するからである。ところが、これまで「なぜ、合掌するのですか?」という質問を受けるたびにその返答に窮する始末であった。
そこで、吉本伊信の遺したテープや資料はもとより、ときには内観研修所を主宰している方々との対話を通して学んだことを筆者なりの表現で答えるようにしてみた。
「人間はどんな人にでも仏性(いのち)が宿っている。仏性というのが宗教的で抵抗があれば、良心あるいは、超自我と言い換えてもよい。たとえ極悪非道な罪を犯した人にでも良心(仏性)というものがある。面接のときの合掌は、内観者に対してだけではなく、否、むしろそれ以上に内観者の背後に潜んでいるとされる仏性に対する畏敬の念なのだ。面接者として内観者の仏性を感得したいとの意思表明だと言ってもよい。そのとき、面接者は心の中で、“私にはこの内観者の悩みを解決したり、病を治したり、救うことは不可能だ。なぜならば、私は無力だから。面接者としての私に出来ることは、せいぜい内観者の中に潜在している仏性が顕現してくれるよう祈るだけだ“と自らに言い聞かせつつ手を合わせる」という説明がそれである。
そして、「合掌」には内観の人間観が象徴的に示されていると思う。ひろさちや氏ではないが、合掌もなかなかいいものである。合掌が日常化しているインドとは違って、この国では日常化していないが故(ゆえ)に、非日常の世界を醸(かも)し出すことにもなろう。そうやって考えると、「合掌」は内観面接に欠かせない所作だとは言えまいか。
〈本文は、拙著「心理療法としての内観」(朱鷺書房)から抜粋し、修正を加えた。〉
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シリーズ【内観をめぐるはなし】第34回
「霊性」をめぐって
大和内観研修所 真栄城 輝明
およそ70年代も後半になって、「スピリチュアリティ」という言葉が「魂」とか「霊性」に翻訳されて、この国の書店の一角に登場するようになって久しいが、最近、内観学会でも講演の中にそれが登場するようになった。
今、時代は霊性の世紀なのであろうか。
否、それは今に始まったことではなかろう。
むしろ、前科学時代の方がはるかに「霊性」の活躍の場があったように思われる。
以前に、青森県で発掘された縄文時代の三内丸山遺跡を訪ねて驚いたことがある。当時の人々の暮らしが紹介された文献や資料によれば、すでに現代人が失ってしまった「霊性」がごく自然に生活の中で生きていた。
たとえば、こんな光景が日常に見られた。
「そうか、太陽が南の空に差し掛かるとき、弥七さんは四つ辻の樫の木の前を通るのかぁ」
今朝、目覚めた時、助六には弥七のその日の動向が見えた。用件は、昨夜の寄り合いで決まった隣村との合同祭を伝えるためである。
何しろ、縄文村には、電話はおろか郵便や飛脚は存在せず、直接逢って話すしかない。
それで、助六はその日、朝食後(縄文では食事は1日に2食)太陽が南天に差し掛かる前に行って、大きな樫の木陰で弥七を待った。
しばらくすると、紛れもなく、弥七が向こうからやってくるではないか。
「どうしたさぁ、助六さん」と、木陰の助六を見つけて弥七は驚いた様子で声をかけた。
「やぁ、貴男に逢いたくてねぇ、昨夜寝る前にそう念じていたら、今朝、目覚めと同時に弥七さんがここを通るのが見えたんさぁ」と助六はごく当たり前に言葉を返したのである。
このような遠感力は、縄文人なら誰でも持っていた能力であり、現代人には、もはや聴くことができなくなってしまった音や声を聴きわけ、見えるはずがないものまで見ることができた。
おそらく、現代人は科学技術の発達に浮かれている間に、人間にとって大事なものを失ってしまったのではないだろうか。
三内丸山遺跡の縄文村を訪ねてそう思った。そして、その大事なものとは、言うまでもなく「スピリチュアリティ」のことである。
それは、どうやら人為や言葉を越えたものらしいのであるが、現代にも縄文人のような能力を備えた人がいてうれしくなった。
その人の名は久路流平(くじりゅうへい)。職業は旅人。それも貧乏旅行の達人。今までに行った国は40弱。
時には野宿をしながら、日本人があまり行ったことのない国を選んで旅に出るという変わり者なのである。しかも驚いたことに外国語はからきし駄目で話せないのだという。
その旅の達人が言うには、外国を旅していて一番騙されやすい人種は、外国語を流暢に駆使する日本人旅行者なのだそうだ。
「どうしてかって言うとね、相手が嘘をついているときでも、言葉を信じると騙されるけど、ぼくは外国語が話せないし、言葉ではなく相手の目をジーッと見ている。目を見ていると分かるのです。だから、言葉はしゃべれんほうがいいと思っている」と、そう言うのである。
「はじめに言葉ありき」と聖書も教えているというのに、しかも世は国際化が叫ばれ、情報化時代である。言葉なしでは生きてゆけないと思っている人が多いはずなのに、旅人はなぜそう言うのであろうか、私には不思議であった。
けれども、縄文村を訪ねて得心がいった。おそらく、久路流平もまた縄文人のように「霊性」を備えた人に思えたからである。
ところで、内観面接者として「霊性」を磨くには、一体どうすればよいのだろうか。
―巻頭言―
内観の国際化を迎えて
真栄城 輝明(大和内観研修所)
今、この国で内観(療法)が俄に注目を集めている。
たとえば、ちょっと本屋に立ち寄ってみたところ専門書はもとよりであるが、一般書のコーナーにおいても内観の文字を付した本が目に入ってくる時代なのである。
このことは、1953年に吉本伊信が奈良県大和郡山に内観道場を開設したころに比べると隔世の感を覚えよう。いや、それほど遠い時代でなくて、1978年の日本内観学会(当時は内観学会と称した)が発足した当時と比べてみても内観の知名度は飛躍的に高まっている、と言ってよいだろう。
ここで本誌を発行している「日本内観学会」の名が出たのでついでに言ってしまうが、第1回大会(京都御香宮)に一般演題として16本の研究発表がなされて以来、昨年の第27回大会(神戸松蔭女子学院大学)までの間、実に521本を数える研究の成果が積み重ねられてきたことを思えば、隔世の感はなおさらに強いものがある。そして、ことのついでにもうひとつだけ記しておくとするならば、本誌は1995年に創刊号を送り出して以来10巻を数えるが、原著論文を中心に特別寄稿や特集論文、あるいは事例報告や論点を組む一方で、学会印象記や資料などを掲載して、内容の充実を図って今日に至っている、ことである。
ちなみに、今号の特集は時代精神を反映した「倫理」に焦点が当てられている。
さて、本誌は今号で第11巻目となるが、姉妹たちの活躍も目覚しい。とりわけ、1990年に発足された自己発見の会が発行している「やすら樹」に至っては、なんと第89号を数えたというではないか。一般への啓蒙書としてこれ以上の活躍ぶりはない。うれしいことである。そして、もうひとり忘れてはならない姉妹がいる。その名は「内観医学」と呼ばれ、内観医学会が母胎となって発行している学会誌のことであるが、内観の理論化に向けて取り組む姿勢は頼もしい限りだ。
さらに、海の向こうでの内観の活躍ぶりも聞こえてくる。
隣の韓国からは、2003年5月に韓国人間関係学会と共催して第1回韓国内観学会を開催したことが伝えられたかと思えば、同年の9月にはドイツから第5回目の内観国際会議を開催した、と伝えてきた。その国際会議であるが、1991年に世界の9カ国からの参加者を集めて東京で第1回大会を開催したあとは、3年ごとに日欧を中心に開催されている。このように、2003年は、どういうわけか、内観の催しが目白押しであった。10月には、第6回内観医学会と共催で第1回国際内観療法学会までも鳥取で開催されて盛会であった。そして、2004年のトピックを挙げるならば、今、この国で最大の学会員(一万人を超えた)を擁する日本心理臨床学会の大会で、内観の自主シンポジウムが開催されたことであろう。この学会で内観の認知度が高まれば、内観人口の増加が期待されよう。
人口といえば、世界一は中国だ。その中国の上海は精神衛生中心で、第2回国際内観療法学会が開催されることになっている。今年の2005年11月11・12日の両日のことである。詳しい内容は本誌の中に案内されているとおりであるが、世界の人口の4人に1人が中国人というわけだから、いよいよ内観の国際化は加速を増すことになろう。そうなれば、本誌に寄せられる期待と役割はこれまで以上に重要なものになってこよう。ますます会員諸氏の研鑽と精進が望まれるところである。
(本文は、2005年5月12日発行の内観研究第11巻第1号の巻頭言から転載しました)
研修所便り 大和内観研修所
安良木 一太郎
我輩は、大和内観研修所の庭の立ち木である。昭和28年に内観道場が開設される以前からその庭に住んでいる。
年齢を訊かれると困る。おそらく80歳は優に超した。近所では百歳にはなるだろう、と言うひともいる。
何しろ、誕生日を祝って貰ったこともないし、学校というところに行ったためしがないので、年齢を訊かれてもはっきりしないのである。ひょっとして先代のイノブさん(内観の創始者・吉本伊信師の本名・イシンは書家の号)かキヌ子夫人にでも訊けば分かるかもしれないが、二人とも念仏行者が死後に生まれ変わる極楽浄土に旅立ってしまわれたのでおいそれと気軽に訊くわけにもいかぬ。
名前だって怪しいものだ。一応、クスノキとして育ってはきたが、姓は安良木、名は一太郎とひとは呼ぶ。その姓は全国各地から悩み苦しむ人たちがやってきて内観というものをやっているうちに「安らぎ」を得て帰っていくので、そう呼ばれるようになった。どうしてまた、我輩の名が一太郎なのかと言うと、この庭で生まれた兄弟のなかでは一等大きくて、年長だからというわけだ。イノブさんは犬好きで風呂場で一緒に湯船を浸かるほどだった。さらに、愛犬だけでなくわれわれ庭木も大事にしてくれた。
当時の庭はかなり賑っていたのに平成5年に倉庫を取り壊して別館を建てたり、平成14年には母屋の内観研修所を建て替えたりしているうちに仲間もだいぶ減ってしまった。鞍田さんなどは、わしらの落とした実や葉を片付けるのにいつも汗だくになっていた。が、庭も縮小され剪定が行き届くようになってからというものは、真栄城さんが汗をかいている姿をほとんど見かけない。
それこそ昔は、内観者も面接者も夏はステテコ姿、冬は袢(はん)纏(てん)を着込んで面接が行なわれたものだ。けれど、新築された研修所は冷暖房が完備されたお陰でそれも見かけない。庭を往来するイタチの姿が消えた。蝉も減った。毎年楽しみにしていた鶯も声を聞かなくなった。時の流れは「大和」にも押し寄せている。
『現代のエスプリ』(至文堂)が8月25日発売予定!
各分野での内観の適用を紹介しつつ、内観研究のトピックなども織り交ぜて、進取気鋭の執筆陣で臨んだ内観のエスプリを味わって欲しい。
特集『内観療法の現在―日本文化から生まれた心理療法』
編集 帝塚山大学 三木 善彦
大和内観研修所 真栄城 輝明
メール座談会 「内観療法の現在」
帝塚山大学 三木 善彦
信州大学 巽 信夫
指宿竹元病院 竹元 隆洋
(司会) 大和内観研修所 真栄城 輝明
定石を習得し、そこから自由になるー内観面接の経験から
帝塚山大学 三木 善彦
■内観療法実践の現在
ギャンブル依存症の内観療法 指宿竹元病院 竹元 隆洋
心因性疼痛の絶食内観療法 慈圭病院 堀井 茂男
岡山大学 黒田 重利
うつ病に対する内観療法 田代クリニック 田代 修司
身体内観ー自分の体を内観の対象にすること
メンタルクリニック滴水苑 高口 憲章
■カウンセリングと内観
カウンセラー養成と記録内観 奈良内観研修所 三木 潤子
カウンセラーが内観療法を体験する意義
米子内観研修所 木村 秀子
学生相談員が内観を体験して 神奈川工業大学 金子 糸子
■教育と内観
なぜ学校で「内観」か 静岡県立川根高等学校 飯野 哲朗
中学校における日常記録内観の実践
東京情報大学 斉藤 浩一
小学生の内観―友達を対象とする事の効果について
国立立山青少年自然の家 高畑 晃
■内観(療法)の本質
内観の本質 白金台内観研修所 本山 陽一
内観の原型 北陸内観研修所 長島 正博
内観療法のエッセンス 大和内観研修所 真栄城輝明
■内観療法研究のトピックス
内観療法の間主観的方法論 東京大学 高橋 美保
信州大学 高橋 徹
大和内観研修所 真栄城輝明
■内観(療法)の展開
東洋思想史と内観 放送デイレクター 金光 寿郎
内観療法による健康なマゾヒズムの成熟
神戸松蔭女子学院大学 一丸 藤太郎
中年危機と内観 信州大学 巽 信夫
内観と「雨上がり」現象についてー水と光のテーマ
北陸メンタルヘルス研究所 草野 亮
■展望
内観療法の展望 大和内観研修所 真栄城 輝明
解説1 吉本伊信が遺した言葉
解説2 村瀬孝雄が遺した言葉
解説3 内観と内観法と内観療法
解説4 内観とヨーロッパの心理療法
春日井断酒会三十周年記念に寄せて
真栄城 輝明(大和内観研修所)
春日井断酒会が三十周年を迎えるという。感慨も一入である。
振り返れば、貴会と関わって久しくなる。発足まもない頃の記念大会に出席したのが始まりで、その後、臨床の場を春日井に移してからというものは、ますます縁が深まって、いつの間にか、顧問まで引き受けてしまっていた。
そして、2000年のミレニアムには、私の人生にも転機が訪れて、春日井から奈良へ引っ越したのであるが、地理的・物理的に遠くなったのにもかかわらず、その縁は切れるどころかいまだに続いている。
果たして、この世で貴会との縁が切れることがあるのだろうか。
否、あの世に逝ったとしても、それは難しいかも知れないと思う。
というのは、最近のことだが、貴会で知り合ったかつての飲んべえたちが私の夢に現れて、「天国に断酒会を結成したので講演に来て欲しい」と依頼してきたからである。なるほど、歌の文句ではないけれど「天国は美女と酒に囲まれて断酒人には地獄のようだ」という。
それにしても不思議だったのは、貴会の元会員たちが天国で暮らしていることであった。生前の、少なくとも飲酒時代をよく知る私にすれば、不可解このうえない話しなのだ。
なぜならば、入会に抵抗し、例会出席を嫌がっていた初めの頃、院内例会や地域の断酒例会の場で飲酒中の失態を暴露されて、鬼のような形相で家族を睨みつけ、ときには殴りかかる姿を知っているからである。酒に魂まで奪われた酒害者が家族を泣かせ、親戚中の嫌われ者となっていながら天国にいること自体、夢とはいえ解せなかった。
という次第で、あの世まで講演に行ったものか迷っているところに、現実の貴会から30周年記念大会への招待があった。
5年まえの25周年の際にも、講演依頼をいただいたが、シンポジウム(温めあう人間関係をめざして)に替えさせてもらったことは、記憶に新しい。そして、今回もまた同様な経緯となった。気軽に引き受けたのはよいが、テーマの選定に迷ってしまった。
さて、依頼を引き受けて2ヶ月が経ち、3ヶ月が過ぎてもテーマが浮かんで来ない。そのとき浮かんだのは夢に現れた今は亡き元会員たちのことである。そこで、彼らがこの世に残していった思いがあるとすれば、それはいったい何なのか、と問いかけてみた。
すると、「生前に、散々迷惑をかけてきた家族のことだけが気懸かりです」という声が聞こえた。今回のシンポジウムのテーマは、あの世で断酒継続をしているという仲間の声から生まれた。
そして、その声を聞いたとき、彼らが天国に召されたことに合点がいった。つまり、天国は懺悔する人たちの住処だったのである。
そうやって考えると、断酒例会の場はまさに天国だといえまいか。
その証拠に、酒害体験を語ったあとの会員の顔には笑みが溢れ、天使のように穏やかな空気に包まれているからである。
最後になってしまったが、30周年を迎えた貴会の前途を祝して、この国のまほろば・奈良より連鎖の拍手を送りたい。
―特集―
内観法と内観療法の原点を探る
―心理療法の視点からみた「内観」の検討―
真栄城 輝明(大和内観研修所)
要 約
小論は、第26回日本内観学会のパネルディスカッションで発表した内容を下敷きにして、それに若干の加筆と修正を加えたものである。 表題のメインテーマは、企画者から与えられたものであるが、筆者には表題に示したようなサブタイトルが必要であった。
これまで「内観」は、主として内観研修所のような場でおこなわれるとき、内観法と呼ばれ、病院などで心理療法として用いられるときに内観療法と称されてきたようであるが、ここでは内観法と内観療法の用語の検討を通して考察した。
ところで、ここで採用した心理療法の視点とは、臨床心理士の河合隼雄によって分類された心理療法の視点のことであり、それを参考にしながら、「内観」の検討を試みた。
ちなみに、小論では、「内観」という言葉を内観法と内観療法を包含するものとして用いている。
<Key words : Naikan (内観)
Naikanmethod (内観法)
Naikantherapy (内観療法)
Psychotherapy (心理療法)
Ⅰ はじめに
「内観の原点にかえる」というメインテーマを掲げて開催された第26回日本内観学会・香川大会(洲脇寛大会長)が、「内観法と内観療法の原点を探る」というパネルディスカッションを企画した際に、筆者にもパネリストとしての役が与えられた。
ちょうどその頃、筆者は本誌の前号に「『内観』をめぐる小考察」という拙文を執筆したばかりで、それを査読した横山茂生編集委員から「内容の一部は割愛して、それを次号で展開したほうがよい」という助言があった。
そのため、前号のはじめの書き出しに「『内観』について論じるにあたって、『内観法と内観療法』という用語についての定義から検討しなければならないかも知れないが、それについては他日を期すことにして」と述べておいたのは、そういういきさつからである。
そして、パネルディスカッションが本誌の特集に組まれることになったため、期された他日がやってきた。当日の発表原稿に前号で割愛した一部を加筆して修正を加えたのが小論であるが、当日の発表では、臨床心理士の立場で「心理療法の視点からみた『内観』の検討」というサブタイトルを付して発言した。
その際にまず、「内観法」と「内観療法」という用語の検討から始めた。
そこで、先行研究や文献に目を通したところ、研究者間に微妙な、しかし、決して小さくない定義の違いがみられた。詳しいことは前号に述べたのでそのまま繰り返すことはしないが、論を展開する上で必要と思われる箇所についてのみ再述してみよう。
すなわち、「内観と内観法と内観療法」という用語がそれほど厳密に区別され、使用されてこなかったように思われたので、前号において筆者は、石井光と三木善彦の考えを対比的に紹介した上で、論を展開した。それを取り出して述べれば、こうである。
石井光は、安田精神保健講座において「『内観』あるいは『内観法』というのは簡単な3つの質問で自分を見つめる自己観察法のようなものです。―中略―内観は心理療法としても非常に効果があるため、『内観療法』として使われていますが、『内観療法』というのは『内観』のいわば一部ですので、ここでは『内観』についてお話しさせていただきます。」と、冒頭にこれら3つの用語についての見解を述べている。すなわち、石井によれば、内観=内観法>内観療法の関係だというのである。
一方、三木善彦は、自著「内観療法入門―日本的自己探求の世界―」の中でこれら3つの呼び名についてこう記している。
「本書の題名は『内観療法入門』であるが、内観法は不健康な者を健康にするという治療的要素のみならず、多分に健康な者をより健康にするという教育的要素をも有すること、いちいち内観療法というのは煩わしいことなどの理由から、本書の中では内観または内観法とした。これは、精神分析療法が単に精神分析と使われるのと同様である。」と。
つまり、三木によれば、三者とも同義であり、内観=内観法=内観療法だと理解してよいらしい、とそこまでは、前号で述べた。
ところで、このような見解の相違がどうして生じるのであろうか?
内観の原点を知る上で、吉本伊信の考えを知ることも必要であろう。第1回内観学会の記念講演で「内観法と私」と題して、吉本は次のように述べている。
「『お前自身今どのように思っているのか』と訪ねられますと、
“見る人のこころ心にまかせおきて 高嶺に澄める秋の夜の月”
悲しい目で見ればお月さんて悲しいものや、寂しいものや。嬉しい嬉しい時に見ると、そのお月さんが非常に嬉しい有り難いと見えます。」と答えている。
つまり、創始者の吉本の言葉によれば、各人の立場によって見解に相違があるのは自然なことだと言うのである。なるほど、立場によって見解が違うのは、あって当たり前のことかも知れないが、今回、内観法と内観療法の用語の検討をしながら連想したことがある。それは、すでに歴史上の出来事になってしまった感もあるが、精神療法と心理療法についての論争である。
Ⅱ, 精神療法と心理療法
かつて、精神医学の世界で「東の井村、西の村上」という言葉が囁かれていた時代のことである。村上仁は京都大学精神医学教授、井村恒郎は東大を経て日本大学の精神医学教授に着任後、全国から門下生が集まっていた状況で生まれた呼び名であった。
その井村の門下生のなかに臨床心理学者でわが国のロールシャッハ研究の第一人者となった片口安史がいた。これから述べる精神療法と心理療法にまつわるエピソードは、生前の片口が折に触れて語っていたものである。それを直接、拝聞したとはいえ独特の味わいのある語りをそのままに伝えることはむつかしい。そこで、少し長くなるが、遺著の「新・心理診断法」から片口自身の文章を引用することにしよう。
「従来、久しくPsychotherapie;psychotherapy は、邦語では“精神療法”と言いならわされてきた。しかし1952年、偉大なる精神医学者・井村恒郎は、その著【心理療法】の序文において、“精神療法”に代わる“心理療法”という言葉を提案した。この新用語の提案の意図は、井村によると以下のごとくである。
『卒直にいって、医学や心理学にたずさわるわれわれにとって、精神療法という言葉は、なにか科学的な技術とは縁遠い呪術に似た印象をあたえる。・・・(中略)・・・著者は精神療法が、科学的な技術となるために、まず、背景にある教義からはなれて、臨床にたずさわる者すべてにとっての共有財産となることを希う。現状のままで直ちに科学的技術にまで脱皮することはできないにしても、せめてその前段階として、臨床のための常識となることを期待する。この期待を抱いて、現代の多くの精神療法の主義を整理しながら、概説してみたのがこの書【心理療法】である。』
すなわち井村は、心理療法という用語の中に“psychotherapy”の普遍的・科学的発展の悲願をこめていたのである。この新語の提案は賛否両論に分かれ、多くの論議を喚起し、30年余を経過したこんにちにおいても、この提案の影響はきえていない。筆者の最初の著書(片口 1956)を【心理診断法】としたのは、この井村の構想に対する深い共感による以外なにものでもない。しかし、不幸にして本来の意図が歪曲され、psychotherapyをめぐっての臨床心理学者と精神医学者の間の、非生産的な対立の具に利用されることもあった。ことに筆者の立場からすれば、精神医学者の思いあがりと特権意識が、井村の深い意図を台なしにしてしまったように思われる。また、一方、臨床心理学者の側の医師に対する劣等感からくる背伸びした姿勢がそれに拍車をかけた点も否めない。」
このエピソードを語るとき、日頃は冷静で温厚な片口の口調が熱を帯びることしばしばであった。というのも、師として尊敬する井村がのちに“心理療法”を撤回し、“精神療法”に戻ったことを聞き、相当な衝撃を味わっていたからである。片口は苦悩した末に、同書の中で、次のように述べている。
「現在、筆者はそれゆえ、精神療法か心理療法かの、不毛の論議の場から脱却するために、本書【片口1974】ではあえて“サイコセラピー”という表現を用いることにした」と。
このような一連の論争を見聞してきた筆者としては、小論のメインテーマとして与えられた「内観法と内観療法の原点を探る」に取り組むにあたって、その用語の検討から始めたわけであるが、不毛の論議に陥ることだけは避けたかった。
そのために、内観療法が内観法の一部だと考える(たとえば石井のような)立場の見解に耳を傾けてみた。すると、心理療法について充分な理解があるようには思えなかった。
そこでまず、心理療法に対する誤解を解くために、小論のサブタイトルとして「心理療法の視点」を持ち込むことにしたというわけである。
Ⅲ, 心理療法の視点からみた「内観」
既述したように、内観法と内観療法について心理療法の視点から考察することにした。心理療法の視点といってもいろいろあるが、ここでは、「心理療法序説」(河合隼雄、1992)の述べられていることが、小論の意図にぴったりくるものがあって、参考にした。
まず、第一章に「心理療法の目的」を掲げた著者は、それに入る前に慎重な前書きを記して、こう述べている。長い文章なので途中を略しながら、小論にとって必要と思われる箇所だけを抜粋して引用した。以下には、それを示そう。
「心理療法は、心理的に困っている人を援助するという極めて実際的な要請に応えて行なわれてきている。そして、その名前が示唆するように医学の領域から生じてきた、『病気を治す』という一般的なイメージと平行して、心理的な苦痛を和らげるという目的を期待されている。―中略―心理療法は現在においては、医学の領域をはるかにこえてしまって、その目的や方法も一筋縄では把握できないものとなっている。従ってそれを『定義』することなど不可能に近いのだが、話のはじまりとして一応それを試みることにする。」と述べた上で、次のように定義してみせている。
「心理療法とは、悩みや問題の解決のために来談した人に対して、専門的な訓練を受けた者が、主として心理的な接近法によって、可能な限り来談者の全存在に対する配慮を持ちつつ、来談者が人生の過程を発見的に歩むのを援助すること、である。」と。
もちろん、これで心理療法のすべてを言い尽くしたとは述べてないが、定義としては必要でかつ十分な内容が盛り込まれているように思われる。そこで、河合に倣って内観療法の定義を考えてみた。上述の心理療法を内観療法に置き換えただけのことである。
すなわち、「内観療法とは、悩みや問題の解決のために来所した内観者に対して、自身も内観を体験し、内観に精通した専門家が、内観による接近法によって、可能な限り内観者の全存在に対する配慮を持ちつつ、内観者がこれまでの人生の過程を発見的に振り返り、それを基に現在の生活を幸せに感じて歩むことを援助すること、である。」と、してみたがどうだろうか。
そして、これをそのまま内観法に当てはめてもよいと考えている。
ところで、河合によれば心理療法には4つのモデルがあるという。最初に示された医学モデルは、西洋近代医学の申し子であり、自然科学的な思考に慣れた研究者にはわかりやすい。
著者が示した図によれば、医学モデルとは次のようだという。
症状→検査・問診→病因の発見(診断)→病因の除去・弱体化→治癒
そこで、フロイトは自分の治療法をそれに習って説明したという。つまり、
症状→面接・自由連想→病因の発見→情動を伴う病因の意識化→治癒 がそれである。
そして、次に挙げたのは教育モデルと呼ばれるもので、医学モデル同様に因果律の考えによっており、「いかなる問題もその原因があるはずである」との見方である。それを図示すれば、
問題→調査・面接→原因の発見→助言・指導による原因の除去→解決 となる。
このような因果律によって内観を捉えているのが、先に紹介した石井と三木の考えのようである。ただ、石井が内観療法について医学モデルだけで見ているのに対して、三木は「内観法は、不健康な者を健康にするという治療的要素のみならず、多分に健康な者をより健康にするという教育的要素をも有する」と述べ、内観療法と内観法の双方に医学モデルと教育モデルを想定している点が違うようである。とはいえ、両者には、法学者と心理学者という専門の違いはあるが、大学人という立場は共通している。大学の研究者が、自然科学的思考に慣れた人だと言って差し支えなければ、因果律によって説明可能なモデルで内観を考えたとしても不思議ではないだろう。
ところが、臨床現場にいる心理療法家などが好むモデルがある。それを河合は成熟モデルと名付けた。科学的な因果律で説明できない場面に遭遇してきた臨床家にとって、既述の二つのモデルは、実際の心理療法ではあまり有効に感じられないために、この成熟モデルは考えられたようであるが、図示されたものはこうである。
問題、悩み→治療者の態度により→クライエントの自己成熟過程が促進→解決が期待される。
ところで、河合は治療者の態度について「クライエントという存在に対して、できるだけ開いた態度で接し、クライエントの心の自由なはたらきを妨害しないと同時に、それによって生じる破壊性があまり強力にならぬように注意することである。」と述べている。
これは内観の面接者にとっても留意すべき点ではあるが、他の心理療法と違って、内観には屏風という枠があるだけでなく、内観者は与えられたテーマに添って考えなければならない。
そこで、内観法と内観療法の面接者にはその態度に若干の相違が出てくるように思われる。
というのは、内観法の面接者が内観の法(きまり)に重点をおく傾向があるのに対して、とりわけ、心理療法出身の内観療法の面接者の場合、「クライエントという存在に対して、できるだけ開いた態度で接し」ようとするため、内観の法(きまり)よりも内観者に添うことを重視する傾向があるように思われる。これはしかし、どちらがよいとか悪いという問題ではなく、面接者としての自分の傾向をよく知っておくことが肝要であろう。
そして、最後の4つ目に挙げられているのは、自然モデル(「しぜん」ではなく「じねん」と称する)と呼ばれるもので、因果的な説明ではなくユングがリヒャルト・ヴィルヘルムに聞いたとされる有名な「雨降らし男」の例を引いて説明している。詳しく知りたい読者は直接、河合の著書を読んでいただくとして、ここには河合自身が例の「雨降らし男」の態度こそ心理療法家の理想だと述べつつ、それについて「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的には一つであることを認める態度につながるものである」とした卓見だけを紹介しておく。実際、内観の面接に携わっていると、このことを感じさせられることが少なくない。たとえば、前号に筆者が紹介した二つの事例(紙数の都合で詳述できないが、興味のある方は本誌の前号に掲載されている拙論を参照いただきたい)は、まさに夕陽と台風という自然(しぜん)の力を背景に内観を深めており、自然(じねん)モデルの典型例のように思われる。
このように一口に心理療法と言っても、単純に「病気を治す」とか「症状を除去する」ものだと思っていると、たとえば石井のように「内観療法は内観あるいは内観法の一部」だと考えてしまうことになる。
確かに、医学モデルや教育モデルに限れば、そう言えるかも知れないが、河合が述べたように心理療法には4つのモデルがあることを知れば、そう単純に言い切れないものがあろう。
ところで、心理療法としての内観療法に4つのモデルを想定するとして、内観法については、いったいどのように考えればよいのだろうか?
そこで、内観法の創始者・吉本伊信の「内観」についての考えを見ておく必要がある。
真宗研究第十二輯に寄せた「内観について」という論文の中で吉本はこう述べている。
「人間は他の動物に比べて何故深刻に悩み、悶えるかと言えば『計らい』と言う無明の闇に閉ざされているからではないだろうか?」と述べたのに続き、その計らいについて「自我の迷蒙と言い直してもよく、『おれがおれが』と言う奴であって、雲やガスの如き物かも知れない。そこでこの恐ろしい無明業障の病である『はからい』なるものをいかにして取除くか、少しでも減少させるかが大問題であるまいか。」と説き、さらに内観法の真髄を示すために自身の悟り体験を踏まえて、次のように述べている。
「最も近道は自己の罪を自覚することが小我を滅する最短距離であるがその罪悪を知る手段として反省のトレイニングが必要となって来るのである。はからいの消去された心境を悟ったとか、一念にあったとか、大悟徹底したとか、または入信した『後生の夜明けが出来た』とか呼ばれている内容と似ている」と。(発行年不詳)
この吉本の言葉から内観法について考えるとき、「症状の消去」や「問題行動の修正」といった医学モデルや教育モデルには馴染まないように思われる。実際、吉本は内観によって病気が治ったとしてもそれは内観の本道ではないとして、ことさら公言することを戒めていたということなので、そもそも内観法を医学モデルとしては考えていなかったのではないだろうか。
ところが、医療の場に内観が取り入れられるようになって、これまで内観法が公言を憚ってきた療法としての内観がにわかに注目されるようになった。
とりわけ、日本内観学会が設立され、とくに「病気への適用」が言われるようになったことがそれに拍車をかけたように思われる。
Ⅳ、むすびに代えて
ここに紹介するエピソードは、当日の発表の際には、冒頭に述べた。
ある日、予告もなくひとりの青年が内観研修所を訪ねてきた。内観を勧める人がいたので見学にきたのだという。青年が内観について説明を求めてきただけでなく、研修所の施設見学を希望したために、およそ1時間近く応対することになった。
そして、話しの中で、その青年には主治医がいることがわかった。また、高校時代の不登校から立ち直って、現在は、大学へ休まず行っており、安定した生活を送っていること、しかし、そのまま社会へ出るのが不安なので、ぜひ学生の間に、自分自身を見つめてみたいと考えていること、等々が語られた。青年の話しを聴いただけでも内観意欲がよく伝わってきた。
ただ、筆者は青年がまだ服薬を続けていて、月に一度は精神科に受診していると言うので、それならば、今度、受診したときに、主治医と相談するよう勧めた。筆者自身の心理臨床の経験からして主治医との連携は、今後のためにも必要だと思ったからである。
ところが、一週間後に再訪した青年の口から聞かされた主治医の言葉には落胆させられた。
「内観?胡散臭いなぁ、やめた方がいいぞ!」と、その一言で青年は内観を断念した。誤解のないように言っておくが、もし、主治医が青年の病状あるいは現在の安定を慎重に見守りたい、という理由から内観を控えさせたのであれば、筆者の落胆はなかったであろう。
かつて、精神療法という言葉が「科学的な技術とは縁遠い、なにか呪術に似た印象」を持たれていた時代があったことは、既に述べたが、今なお、内観研修所においてなされる内観法に対して懐疑的な精神科医がいることに対する落胆なのである。少なくとも、筆者の病院時代には、経験しなかったことである。改めて、これまでの筆者の内観臨床は、病院という科学的装いに護られていたに過ぎなかったことを思い知らされた。おそらく、内観法の原点を辿るとき、誤解と偏見に遭遇したエピソードは、枚挙にいとまがないであろう。
そして、今更に、吉本伊信の苦労が忍ばれる。そうやって考えると、現在の本学会会長である竹元隆洋が学会の設立を呼び掛けたことの意義は大きかった。
確かに、いまなお内観を胡散臭く思う人がいることは事実であるが、少なくとも学会が設立される27年前に比べれば、社会的な信用度は比較にならないものがあるように思われる。
筆者にすれば、落胆事件を経験したばかりだったので、その意義を痛感した次第である。
そこで、「現在においては、医学の領域をはるかにこえてしまった」と言われる心理療法にあって、内観療法もまた例外ではない、という経験をしてきたので、そのあたりの考察を試みるつもりである。他日と言わず、できれば来年の第27回・神戸大会をその機会にしたい。
(本文は、内観研究第10巻第1号 2004年5月15日発行から転載しました)
参考文献
1)真栄城輝明:「内観」をめぐる小考察 内観研究 Vol.9 No.1 2003,5,10 p35-41
2)石井光:内観療法「個人史と内観療法」安田生命社会事業団2000,東京
3)三木善彦:内観療法入門―日本的自己探求の世界―創元社1976, 大阪
4)吉本伊信:内観法と私 第一回内観学会発表論文集 1978
5)吉本伊信:内観について 真宗研究第十二輯 年代不詳
6)片口安史:改訂 新・心理診断法 金子書房 1987, 東京
7)河合隼雄:心理療法序説 岩波書店 1992, 東京
シリーズ【内観をめぐるはなし】第41回
「精神分析」と「内観」の断片
大和内観研修所 真栄城輝明
学生時代に、心理療法には百種以上もあるらしいと聞いて驚いたが、その心理療法が今では、四百種を越える時代になったという。
ところで、あまたある心理療法の中でもオーストリアに生まれ、欧米で発展を見せた「精神分析」は、創始者・フロイド(1856~1939)の名とともによく知られており、構築されてきた理論も少なくない。
それに比べると、吉本伊信(1916~1988)の「内観」は、心理療法としてみるときに、およそ半世紀の遅れだけでなく、知名度と理論化において「精神分析」には及ばない。
その知名度と理論に惹かれて、セミナーには他学派の専門家も顔を出しているようである。
つい最近のことであるが、京都で開催された精神分析のセミナーに参加した。アメリカまで行って、スーパーヴィジョンを受けている日本人分析家がいるだけでなく、著書によっても高名ぶりが伺われる博士が来日したからである。私にすれば珍しく、30分前に会場へ到着。
会場を見渡すと、すでに数名の方が席を確保していたが、一番前のしかも真ん中の席が空いていたのでそこに座を定めた。我ながら学ぶ意欲が満ちていたのであろうか。しばらくして、私の隣席には博士夫人が案内されて座った。
セミナーでは、昼食を挟んで講義と症例検討が行われたが、そこで文化の差を目撃することになった。日本では、妻を会場の一番前の席に座らせることさえ憚られるというのに、博士は話している間、視線の大半を聴衆ではなく夫人に送っただけでなく、傍らの通訳が自分に話している内容をマイクに通して自らの英語で会場の夫人に伝える時間まで取ったのである。
よもや、アメリカ帰りであったとしても、日本の精神分析家の中に、その博士の振る舞いまで取り入れるひとはないだろう。彼の国では、紳士の振る舞いかも知れないが、この国には馴染まない行為だ。文化の差は大きいと痛感。
たとえば、この文化差は心理療法の目標にも及んでいるように思われる。「精神分析」の治療目標として使われる言葉に「自己実現」がある。それに対して、安藤治によれば、仏教の考え方からすると「自己」は実現されるものではなく、乗り越えられるもの、いわば「超越」されるものだという(仏教としての心理療法・法蔵館)。
もとより、仏教文化で生まれた「内観」においても同じように言えよう。「内観」の目的は、自分自身を知ること、すなわち「自己」もまた「無我」であることを知ることになる。
というようなことを考えているうちに午前中のセッションが終わり、昼食の時間になった。
「精神分析では、時間の厳守を強く言います。みなさんも時間だけは厳守してください。1時半には、午後の部を再開しますので遅刻しないようにお願い致します。」
博士の言葉は通訳を介すまでもなく、参加者によく伝わった。遅れてはまずいと思ったのか、近くのうどん屋に駆け込むひとも多かった。
食後の会場は、30分前なのにもう席に戻って、午後の資料に目を通しているひとがいる。
博士の言葉が効いていた。ところが、時間になっても当の博士の姿がない。10分が経過した頃、会場係の携帯が鳴った。「料理の一部がまだ出てないので30分ほど遅れるそうです」。
会場係が申し訳なさそうにそう言った。
そして、待たされること45分。日本人の関係者は、小走りで身体を丸めて戻ってきたが、博士は臆することなく最後尾で入室して曰く、
「私には責任はありません。料理の遅い店を選んだ事務局の責任です」と。見事な自己主張に「内観」とは違う文化を感じて絶句。
内観療法における終結
真栄城 輝明(大和内観研修所)
はじめに
本稿は、表題のテーマについて述べようとするものですが、内観療法を専門としない読者の理解を助けるために、内観用語の解説から始めようと思います。まず「内観とは何か」について述べつつ、「心理療法としての内観」についても言及することにします。その後、内観の世界でも未だ十分な定義がなされているわけではないのですが、「内観と内観法と内観療法」について簡単に触れることにします。そして最後に、「内観法と終結」を俎上に載せながら、本題の「内観療法における終結」へと考察を進めてみたいと思います。
1、内観とは何か
内観とは、読んで字の通りに「(自分の)内を観る」ことであり、そのために考案された自己観察の方法なのですが、そのルーツは、浄土真宗の一派に伝わる「身調べ」という修行法に辿ることができます。何のための「身調べ」なのかといいますと、悟り(転迷開悟・一念覚知・宿善開発などともいわれている)を開くためです。当時は、身調べをする人を「病人」と呼び、面接者は「開悟人」と称していたようです。病人は断食、断水、断眠という厳しい条件下でそれこそ命懸けの「身調べ」を行ったとされています。
実際、伝えられるところによりますと、時々、気が狂ってしまうだけでなく、なかには命を落とす人もいたというわけですから、相当な荒行だったことが伺われます。それを子どもから高齢者まで一般の方にも取り組めるような現在の形に改良したのが内観の創始者・吉本伊信(1916~1988)でした。
その後1941年頃には、「内観法」という言葉が使われるようになり、ほぼ現在の方法が確立されましたが、吉本伊信が奈良県大和郡山に内観道場(現在の大和内観研修所)を開設したのは1953年のことです。現在の内観は、朝5時に起床して夜は9時に消灯するまで屏風で囲まれた半畳の空間で過ごしますが、8時間という睡眠時間が確保されております。また、水分はもとより、食事も三食きちんと摂取し、風呂にも毎日入ることが出来ます。原則として約5分程度の面接が1日に7~9回の頻度で、およそ1時間半~2時間おきに繰り返されますが、内観では面接よりも内観している時間、つまり自己探索の時間を重視しています。内観がうまくいっているときは、面接はなくてもよいと言う人さえいるくらいなので、本来、内観が「一人作業」だと言われるゆえんがそこにあります。したがって、「一人作業」に耐えられなければ、途中で挫折をしてしまうことになります。屏風の中で居眠りをしている内観者に対して吉本伊信は「ここは宿屋ではありませんので内観する気がなければお帰りください」と厳しい態度で臨んだようですが、修行法としての内観の真剣さを伝えてくれるエピソードだと思います。
2、心理療法としての内観
さて、その内観が心理療法として用いられるようになりますと、内観療法とも呼ばれるようになりました。とりわけ、1978年に内観学会が設立されてからというものは、セラピストがクライエントに内観を導入するケースが増え、学会の場で、内観療法としての研究成果も次々と発表されるようになりました。そうなると、臨床の分野では内観法という呼び名よりも、内観療法と呼ばれることが普通になってきたのです。かつて内観法としての内観は「一人作業」としての色合いが濃かったのですが、心理療法としての内観になると「関係」 が注目されるようになりました。なぜならば、基本的に心理療法 は、二人の人間(セラピストとクライエント)によって行われることが多いからです。つまり、内観法では問題にされなかった両者の「関係」が内観療法においては重視されるようになってきたというわけです。当然のことながら、「関係」が注目されるようになると、両者の「出会い」とその「経過」並びに「終結」について検討する必要が出てきます。本稿では内観療法における「終結」について述べるわけですが、その前に「内観と内観法と内観療法」という用語についても触れておくことにします。
3、内観と内観法と内観療法
ここで「内観と内観法と内観療法」という言葉について述べようと思うのですが、じつはそれを語りだすとひとつの論文が出来上がってしまうほどです。紙幅に制限を求められている本稿でそれについて詳述するわけにはいきませんが、興味のある方は拙文 を参照していただくとして、ここにはごく簡単に述べるだけに止(とど)めたいと思います。
内観法は主に内観研修所などで行われていて、いわゆる内観原法と称されることもあります。自己啓発を求めてくる内観者には最適です。一方、内観療法は、心理療法として内観を求めてくる場合に必要とされてきましたが、病院などでその環境に合わせて治療構造が改変されたり、あるいは内観研修所においても内観者の病理に合わせて工夫されたり、いわゆる内観変法として用いられている内観のことを称しています。そして内観という呼称は、それらを総称する際に用いられてきました。また、その他に集中内観や日常内観、分散内観といった言葉もありますが、通常、内観という場合には集中内観を指してそう呼ぶ慣わしがあります。ここでもそれに倣って「内観」と記述する場合には、「内観法」と「内観療法」を総称する際に用い、集中内観を意味しています。
4、終結と内観法
ところで、「終結」とはどういう事態なのでしょうか。広辞苑は「物事が終わりになること。しまい。おわり」の意味だと記しています。「心理療法を終えるとき」という本書のタイトルに倣えば、本稿の本節では「内観法を終えるとき」ということになりそうです。また、別な言い方をするならば、「終結」とは心理療法を続けてきたセラピストとクライエントの「別れ」ということにもなるでしょうか。そうすると、内観法には「終結」はなじまないように思われます。というのも、既に述べたことですが、本来、内観法は「一人作業」だといわれていますから、この場合に両者が「別れる」という事態は、訪れようがないし、ふさわしくないことになります。
また、内観法を説明する際に、吉本伊信は集中内観を電柱に、日常内観を電線に譬えました。つまり、研修所などで一週間という期間を籠(こも)って行う集中内観は、日常生活に戻って行う日常内観のための基礎訓練であり、入門式だと言うのです。入門式を経た内観者は、そのあと日常生活の中で日常内観を続けることが求められます。実際に吉本伊信が模範的内観者として絶賛した女性(お琴さん)の場合は、自らの意思で日々の内観を官製はがきに書いて送ってきましたが、まさに「一人作業」を継続したことになります。かつて筆者は、お琴さんのはがきによる日常内観の件を伝え聞いたとき、おそらく吉本伊信という面接者(師)がいるからこそ続いているのだと思っていました。ところが、その吉本師が他界したあとにもはがきが届いたのです。しかしそのときでも、それは2代目所長のキヌ子夫人に宛てたものだというふうに勝手に解釈しておりましたが、夫人亡き後、一面識もない筆者が所長を引き継いだあとも、はがき内観が定期的に届けられたのには驚いてしまいました。お琴さんの日常内観は、まさに「一人作業」の極致に達したものだと思われます。こうなると、「内観法の終結」はその人の生命(いのち)の終わりにやってくるとしか言いようがありません。否、あの世で続いていないと誰が言えるでしょうか。ひょっとすると、内観法は「永遠に続く行」だといってよいかもしれません。
5、内観療法における終結
ところが、修行法としての内観ではなく心理療法としての内観を求めてやってくる内観者(クライエント)にとっては、既述のような「一人作業」としての内観法は困難になることがあります。そういうケースには「関係」のなかで内観療法が行われますが、おそらく他の技法と比べたとき、「関係」のあり方はだいぶ違うように思われます。ある高名な精神分析に精通したセラピストが「心理療法とは、セックスのない恋愛関係だ」と講演で述べておりましたが、それを聞いたとき、内観との相違を感じた記憶があります。恋愛関係のような濃密な心理療法であれば、両者(セラピストとクライエント)のコンプレックスが絡んだときには、相当に複雑な「関係」が発生するように思われます。では、その高名なセラピストの行う心理療法と内観は、どう違うというのでしょうか、おそらく治療構造の違いは大きいように思われます。たとえば、カウンセリングや精神分析が1回50分(あるいは60分など)というセッションを毎週,あるいは隔週に決めて開始するわけですが,最初から終了日を決めて行うことは少ないでしょう。もとより,上地安昭によってわが国の学生相談の分野に紹介された「時間制限心理療法」 というのはありますが、それは,学校に長期休暇や卒業という制度があるために,心理療法の流れとは無関係に面接の中断や終結を余儀なくされるという事態が発生するので,それによる弊害(セラピストの傷つきやクライエントの不安など)を考慮して作られたという一面があるようです。そこでは、個々のクライエント(学生)によって,制限時間の設定も変わってくるように思われます。内観のようにどのクライエントに対しても一週間という時間制限がなされているわけではないように思われます。つまり,一週間を単位とするこの時間制限は,内観の特徴だと言ってもよいでしょう。内観では,時間が制限されているだけに短期集中法としての効果が発揮されることになります。「一分一秒を惜しんで内観してください」というのは,吉本伊信の言葉ですが,一週間の時間制限下で聞かされるとその気になってしまうから不思議です。内観が治療構造の中に時間制限を設けたことによって、逆説的ですが、セラピストはその間はほとんど付ききりでクライエントの世話が可能になります。起床時から就寝まで食事はもとより、定期的に面接が行われて集中した世話を受けることのできる構造は、重症で不安の強いクライエントには安心感を与えることも事実です。そして、セラピストとの間で安心感を体験したクライエントほど終結はスムーズですが、一週間で十分でないというクライエントの場合には延長もあり、繰り返し内観に訪れるケースもあります。
【本文は、「心理療法を終えるとき」丹治光浩編(北大路書房)より転載しました。】
沖縄のオバァ
真栄城輝明(大和内観研修所)
編集者より「沖縄の老人について紹介してほしい」という依頼があった。すぐに頭に浮かんだのはオバァの姿であった。「尾張名古屋は城で持つ」というが、沖縄にも城は多い。
ところが、沖縄の城は、名古屋のそれとちがって城(グスク)と呼んで、神が降りた場所、すなわち聖地のことを指している。沖縄の姓によくある城はシロではなくてグスクという意味なのである。そして、まさにオバァは沖縄の城(ぐすく)主(ぬーし)なのだ。ふつう女性が年を重ねるといつしか自然に「おばあさん」と呼ばれる老女になっていく。
けれども、オバァは単なる老女とは違う。オバァと呼ばれるからにはそれなりの風格が備わっていなければならないからである。風格の二、三を紹介するとつぎのようである。
たとえば、時代の流れで沖縄にも核家族は増えているが、お墓だけは今でも門中(もんちゅう)が集まるところになっている。清明祭などの門中の集まりを取り仕切っているのがオバァなのである。男たちはオバァの指揮の下に集まり、オバァに言われたとおりにご先祖様に手を合わせ、後は車座になって酒を飲み歓談するだけである。また、各家庭においては仏壇を守り、先祖供養の一切を引き受けるのが女たちの役割であるが、さしずめオバァはその総指揮官としてご先祖様へ語りかける役目を担う。
そのほか、子や孫たちの縁談、進学、引越しなどで迷ったらユタに相談して決めることが慣わしとなっているが、どこのどのユタに相談するのかといった事から始まって、細部を決めて動くのはオバァであり、男たちは黙ってただただそれに従うのみである。
そういうわけなので、このような事態を子どもの頃からみてきた筆者としては、それを「オバァ力(りょく)」と称したいほどである。さらに言えば、沖縄のオバァには予知能力さえ備わっている。たとえば、家族のだれそれのことを夢に見て、直接電話をしてくることがある。
「あんた、元気がないようだったけど、何かあったんじゃないの」と夢のお告げにしたがって助言をしてくれることもある。そして、たいていオバァの予知したとおりになることが多いので、家族たちがオバァへ寄せる信頼は絶大なものがある。オバァは一家のカウンセラーと言ってもよいだろう。そして、オバァは情け深い。困っているひとがいると放ってはおけないのである。相互扶助の精神が旺盛で自助グループが活発である。下書きの原稿には具体例を紹介したのだが、本文には紙幅の都合で割愛せざるを得なかった。
【本文は「老いを生きる、老いに学ぶこころ」(創元社)より抜粋し、転載させてもらいました。】
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