内観特別講演会 石川洋「泥舟から報恩の舟に」を拝聴して
『雨ふるふるさとははだしであるく』 (種田山頭火)
雨降る
ふるさと
天からの恵みの雨
母います、ふるさと
私という大地に天から、父母から、恵みの雨が降る
そんなふるさと
自らを捨てて、私を産み、育ててくださった母
たとえば、(白鳳期までだろうか)古い仏像の姿を見ると、
表は慈愛に満ちた、母の面影
しかし、後姿は、荒削りのまま、
この後姿こそ、表に決して見せることの無い、あるがままの姿
仏とは、自分を捨てきって解脱した、理想の姿
自分を捨てきって、他のためにつくす、仏の菩提心
母の背中と重なる・・・
父母も私と同じ、一人の人間
苦しみも、悲しみも、
荒削りの背中を見せないけれど、
私と同じ、なにも出来ない儚い一人の人間
石川氏は、常に父母の写真を懐中に収め、
朝にはいつも、父母と「生きた話」をされている
それが、生きる力になる
私の命の根源は、父母、さかのぼれば宇宙の根源まで・・・
命の根源は、ふるさと
父母のまた父母は我なり
我を愛せよ 我を敬せよ
誰の心にも、鬼が棲む
人には、解決できない、どうすることもできない業がある
それでも、私は生かされている
いつも、誰かに、何かに、導かれている
自分を捨てよ 全てを任せよ
私は何もできないのに
唯自分を見つめよ 父母を見つめよ
悲しくても 苦しくても
懐かしいふるさとに 雨が降っていても たとえそこが修羅場でも
裸足で 歩け
命の 宇宙の根源が そこにある
ふるさとは みんなさみしく なつかしく (石川洋)
母にしていただいたことに対して
何一つ尽くすことはできない
それならば 母になしたるように
他の人に尽くしなさい
(涅槃経)
偉い人ではなく
立派な人でなく
人のお役に立つ人になりなさい
(西田天香)
内観は 本来 当たり前のこと
それすら出来ない私を見つめるのが 内観
素直になれない私は
父母の力をもらう資格のない私は
内観すらできない私は
ふるさとが見えない私は
本当に なんにもできない ただのひと
だから
自分を捨てよ
全て任せよ
といわれた気がした
屏風のなかに膝をかかえ
さなぎのように
いつか押し出される力を頂いていることを知るために
天からの力 父母からの力 全ての人からの力・・・
命の根源を知ることが 生きることだとしたら
内観することが 生きることになるのかしら
私は摂食障害
心の奥に棲みつく不安を、怒りを、口を満たすことで刹那的に忘れようとしている
そのときだけ深い深い、はてしない快楽に落ち込み、
しかし、覚めたとき、後悔の嵐
なぜこんな病に取り付かれているのかと5年程もがき苦しみ、
でも自力でなんとかしようと、
私は去年の4月に、病院ではなく、内観の扉を叩いた。
屏風の中では、食べ物のことを考えなくて済む、それだけで心地よく、
実際の内観になると、母に対して、一つふたつ思い出すのが精一杯
本当に、ほとんど思い出せなくて、終わってしまった
きっと、思い出さないように、自分で記憶に鍵をかけているのだろう
だから、鍵をこじあけようとすると、トラウマが私を襲う
親が好き、嫌い、ではなく・・・
記憶のまだない赤ちゃんの頃から、私は恐れと怒りにみちて生きてきた
そんな私に、親に感謝、親にふるさとを感じる・・・
本当は、それだけでトラウマが蘇り、見境がなくなってしまう
でも、これからは、親からの恐怖を感じないで、自分らしく、思うが侭に生きたい
私の家はないと信じていたけど、心のふるさとを、感じてみたい
そして、私の病も いつか感謝のエネルギーになるように
私の病が 天からの恵みの雨であるように
私の力になるように
地湧菩薩
この世を救うものは地から湧き出る力
天からの恵み
すなわち父母の恵み知ることによって
地が 私が 潤うことが出来る
これからどうなるのか、誰にも分からない
でも
いつか内観できるときが来ることを、信じている
そのときは
どしゃぶりのふるさとを
裸足で歩きたい
石川氏をはじめ 今日私をここに導いてくださったすべてのすべての人に感謝したい
(Sachiko.K)