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No.20

「自力」と「他力」の問答
            大和内観研修所 真栄城 輝明


「内観は真宗のお寺(内観寺)で行われていると友人が言うのですが、本当ですか?」
 真宗の信徒で隠居の身だという男が、突然に電話をかけてきて、そう訊いてきたのである。 
茶飲み話にでも内観の話が出たのであろう。「友人も私も内観の体験はないのですが、一週間という期間、屏風の中に籠(こも)って禅の修行のようなことをする、と聞いたものですから・・」と、電話の理由をあれこれ並べて見せたが、男の話を掻(か)い摘(つま)んで紹介すればこうである。
「修行の仏教とされる道元の自力仏教に対して、親鸞の浄土真宗は他力仏教であり、屏風に籠(こも)って修行の真似事をするのは解せない。本当に、内観は真宗から生まれたのか?」と。
男は、仏教の知識が豊富のようであった。知人の紹介する内観の本にも目を通したらしい。
「内観がやっていることはまるで自力修行のようだし、真宗の他力思想からみると腑に落ちないので電話をしました」というのである。
しかし、私の仏教の知識ときたらほとんどゼロに近く、男が納得するような問答は出来なかった。私は自分の不明を恥じた。そこで、まず「自力と他力」の相違を知ることから始めた。その類の本を手当たり次第に求めた。「法華経を生きる」の著者・石原慎太郎と「他力」の著者・五木寛之の対談は両者の比較に好適であった。
たとえば、石原は自力の例に宮本武蔵が吉岡一門と一乗寺の決闘へ出掛ける場面を挙げた。武蔵が不安になって、通りかかった神社で神の加護を祈ろうとして、はっと我に返り、「神仏を頼っては負けたも同然だ」と、祈らずに決闘へ向かった。その時を石原は、武蔵が「他力」に頼らず「自力」に徹したのだと考える。
ところが、「他力」という言葉を「あなた任せ」「人任せ」の意味で解する人がいるが、それは本来の「他力」とは違う、と五木は説く。親鸞が「本願(・・)他力(・・)」と表現したように、「他力というのは、自力を奮い起こさせるもの」(鈴木大拙)であって、目に見えない大きな力、人智を超えた大きな光が自分を照らしてくれることを言うそうだ。なるほど、これはユング心理学の共時性に酷似するものとして読めた。五木によれば、「神や仏に助けを求めるような弱い心ではだめだ、と武蔵は思った。全力を振り絞って、自分の力だけで闘わなければ、と決意した。じつは、その『決意』こそが、見えざる『他力』の光が彼の心を照らした」事になるようだ。
そして、「他力は自力の母だ」と言うのである。
もし、再び男から電話があれば、内観が「他力」を知るための方法であることを話せそうだ。その時に、内観のエッセンスを伝えるために次の「海で漂流した船乗り」の物語も紹介しよう。
「航海中に,一人の船員が誤って海に落ちてしまった。誰もそのことに気づかず,船はそのまま航行した。水は冷たく,波は荒く,真っ暗闇。大海の中で,男は死に物狂いで、島に向かって泳ごうとするが,方向が正しいかどうか確信が持てなかった。船乗りなので泳ぎは上手いが,腕も足も疲れ果て,喘(あえ)いでいた。大海の中で迷い孤独になった男は,もうこれでおしまいかと思った。体が海の底に引きずり込まれそうになった時、海の深淵から声が聞こえてきた。『力を抜け。力むのを止めろ。そのままでいいのだ』その声を聞いた船乗りは,自分の力だけでむやみに泳ぐことを止めた。すると,力まなくても海が自分を支え浮かせてくれることを知った。船乗りは心から感謝した。そして、本当ははじめからずっと大丈夫だったことに気づいた。それを知らなかっただけなのだ。海は変わっていないのに彼の考え方が変わったので,彼と海との関係が変わったのである」(真宗入門)。

(『やすら樹92号』シリーズ【内観をめぐるはなし】第49回より転載しました)
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