S-III-22: Culture-unique psychotherapy developed in Asia.
内観療法の紹介
“Naikan therapy in Japan: Introspection as a way of healing”
真栄城輝明
(大和内観研修所)
Ⅰ、はじめに
演者は臨床心理士である。24年間の病院内観臨床を経て、内観法の創始者・吉本伊信師が内観指導に明け暮れた内観研修所にて3代目の所長として内観面接に従事している。
1937年11月12日、宿善開発を果した吉本伊信は、「この悦びを世界中の人々に伝えたい」と願った。世界とは文字通りに国境を越えた諸外国のことであるが、国内においては、宗教界にとどまらず、矯正教育界・産業界・学校教育界・医療界など、各分野への普及となって実現している。
本シンポジウムの企画者が演者に求めてきた課題は、「日本で生まれた内観療法について紹介してほしい」ということなので、以下に示す項目について述べてみたいと思う。
1, 内観と吉本伊信
2, 内観の歴史
3, 内観の方法
4, 内観の国際化に向けて
Ⅱ、内観と吉本伊信
【生い立ち】
内観の創始者・吉本伊信は、1916年5月25日5人兄弟の3男として、奈良県大和郡山市に生まれた。父・伊八は、肥料商を営む傍らで、村会議員をつとめ、学校の父兄会の役員も熱心に引き受けていた。伊信少年は中学時代から書道を学んで、書家を目指した。伊信(ISHIN)という呼び名は、書家の号であり、本名は伊信(INOBU)であるが、晩年は「ISHIN」で通した。少年は、勉強は良くできて、いつも級長をしていたが、運動は不得意であった。
【内観との出合い】
元々、伊信は優しい性格の持ち主であった。小学校1年生のとき、担任の先生が病気のため学校を辞めると聞いて、夜中にひとりで泣いている。2年生のとき、ひとり娘の妹・チエ子が4歳で他界してしまった。可愛い盛りの娘を亡くして母親が嘆き悲しんで、求道・聞法・読経勤行に打ち込む姿を傍らで見て育ち、お寺参りにも同行した。多感な少年は、母親の影響を強く受けて、信仰心が芽生えたと思われる。そして、青年期になって、キヌ子夫人との出会いが決定的となった。
「好きになった人に尊敬されるには、どうしたらよいか?」
伊信青年は、惚れたキヌ子と結婚したいと思った。そのためには、すでに転迷開悟の境地に達していたキヌ子のように、伊信は自分も又道を求めることにしたという。
そして、当時、「身調べ」と呼ばれていた内観の前身に挑んだ。父・伊八は息子の「身調べ」には、反対であった。伊信は父の目を盗んで再三、それに挑戦するが、3度の挫折を経験している。苦難の末、漸く4度目にしてついに「転迷開悟」を果たしている。吉本伊信が内観と出合うためには、祖母・母・妻の存在は欠かせなかった。
Ⅲ,内観の歴史
1937, 11月12日午後8時、吉本伊信、身調べによって宿善開発。内観普及の開始。
1941 内観法という言葉が使われ、ほぼ現在の方法が確立。
1953 奈良県大和郡山市に内観道場(現在の大和内観研修所)を開設。
1968 内観3項目が確立。
1978 内観学会(現在の日本内観学会)第1回大会の開催。
1980 オーストリアにて第1回内観研修会開催。
1985 内観懇話会(現在の日本内観研修所協会)発足。
1988 吉本伊信、永眠(73歳)
1991 第1回内観国際会議が日本国・東京で開催(以後3年毎に日欧で開催)
1992 第7回華東地区精神医学大会(上海)にて内観療法が紹介される。
1993 上海精神衛生中心に中国で初めての内観療法室が設置。
1998 内観医学会(現在の日本内観医学会)が発足。
2003 第1回国際内観療法学会が日本国・鳥取大学医学部の主催で開催。
2005 第2回国際内観療法学会が中国・上海精神衛生中心の主催で開催。
Ⅳ、内観の方法
【集中内観】
内観には日常生活の中で行う「日常内観」と「集中内観」がある。吉本は集中内観を電信柱に、日常内観を電線に喩えて、両者は車の両輪のように大切なものだと述べている。あるいは、集中内観を基礎訓練だとするならば、日常内観は応用編ということになる。集中内観で身に着けた方法を日常生活の中でも一定の時間、内観を出来るようになることが理想だといわれている。ここでは、基礎訓練としての集中内観について述べる。
1, 物理的環境
静かな部屋の片隅に屏風が立てられて、内観者はその中に籠ることになる。トイレ、入浴以外は、屏風のなかで静かに過ごす。食事も屏風の中でとることになっている。屏風は内観者と外界を遮断するだけでなく、外界から内観者を保護する、というはたらきをしている。内観者は、食事や風呂など、日常生活における一切の雑用から解放されて、自分を見つめることだけに専念できる。
2, 行動の制限
屏風の中では楽な姿勢で過ごしてもよいが、原則として、内観中は屏風の中で過ごさなければならない。面接時だけは正座の姿勢で面接者に内観した内容の一部を報告する。新聞・ラジオ・テレビはもとより、電話などで外界と連絡する事もできない。就寝時は、屏風をたたんで、その場に布団を敷いて休む。同室に他の内観者がいても、お互いの私語は禁止されている。内観室は禁煙になっており、喫煙者には喫煙室が用意されている。勿論、飲酒は厳禁である。
3, 時間的条件
面接はおよそ1~2時間おきに面接者が屏風まで赴いて行われる。1回の面接時間は、5~10分程度、1日に8~9回程度の面接が繰り返される。起床は午前5時。消灯は午後9時となっている。食事は一日3食を面接者が屏風まで配膳し、終了後は下膳する。風呂の準備も面接者の仕事である。内観者は、1分1秒を惜しんで内観を続ける。
4, 課題連想探索法
内観は、自由連想法と違って三項目というテーマが設定されている。それを私は、「課題連想調査法」と呼んでいる。三項目を具体的に示せば、対象者に対する自分自身のことを調べるわけであるが、その際に、たとえば母親に対して自分自身が①「してもらったこと」②「してかえしたこと」③「迷惑をかけたこと」というふうに、三つの視点からみていくのである。
Ⅴ、内観の国際化に向けて
【治療構造と文化差】
周知のように、内観には日本文化で生まれた小道具が使われている。たとえば、畳、
屏風、座布団、襖あるいは障子、お膳などである。それはしかし、果たして内観に欠くことのできないものなのか?国際化を考えてゆくとき、すぐに直面する問題であろう。
たとえば、外国から内観に来た場合、正座の姿勢が出来ないことが少なくない。実際、中国からの内観者を迎えたとき、ひざを崩してもらって面接したことがある。ときには椅子を持ち込んでの面接になることもある。ヨーロッパでは屏風の変わりに衝立を屏風代わりにしているようである。
また、内観の内容について言えば、たとえば、対象人物を選定する際、日本では、まず母親が優先されることが多い。けれども、かつて、ドイツを訪問したとき、マールブルグ大学のブランケンブルグ教授が私的な会話の中で「ドイツでは、まず父親が重要なので先に調べ他方が良いかもしれません」と語ったことが印象に残っている。
【内観のテーマと文化差】
先述したように、内観には三つのテーマが用意されている。三つのテーマの他にも、「嘘と盗み」というテーマがある。これらのテーマに沿って自分自身を見つめるとき、内観者は罪悪感と向き合い、無常観を観取するまでに至るとされている。しかし、果たして文化の違う諸外国において、日本と同様にそのテーマを扱って良いだろうか?
というのは、昨年の国際内観療法学会の際に、上海精神衛生中心の王祖承教授が私に「中国では罪悪感というテーマを日本と同じように扱うのは難しいです」と話されたことが強く印象に残っているからである。
Ⅵ、さいごに
このように、内観の国際化を考えてゆくとき、文化差については十分に考慮せざるを得ないだろう。屏風が衝立に変わったり、畳がベッドやソフアに変わるのは了解するのも難しくはないが、内観のテーマが改変されてしまうと、果たしてどこまで内観と呼べるのか、考えさせられてしまう。内観のエッセンスだけは、抑えておく必要がある。
そこで、内観のエッセンスを簡単に示すならば、「内観は、心を病んだり,不幸な出来事に遭遇したり,人生の荒波に呑み込まれそうになっておぼれかかったとき,魂の深淵からの声を聴くためにする」と言っておくことにしよう。
(英文抄録あり)
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