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内観療法における終結

             
  真栄城 輝明(大和内観研修所)

はじめに

本稿は、表題のテーマについて述べようとするものですが、内観療法を専門としない読者の理解を助けるために、内観用語の解説から始めようと思います。まず「内観とは何か」について述べつつ、「心理療法としての内観」についても言及することにします。その後、内観の世界でも未だ十分な定義がなされているわけではないのですが、「内観と内観法と内観療法」について簡単に触れることにします。そして最後に、「内観法と終結」を俎上に載せながら、本題の「内観療法における終結」へと考察を進めてみたいと思います。

1、内観とは何か

内観とは、読んで字の通りに「(自分の)内を観る」ことであり、そのために考案された自己観察の方法なのですが、そのルーツは、浄土真宗の一派に伝わる「身調べ」という修行法に辿ることができます。何のための「身調べ」なのかといいますと、悟り(転迷開悟・一念覚知・宿善開発などともいわれている)を開くためです。当時は、身調べをする人を「病人」と呼び、面接者は「開悟人」と称していたようです。病人は断食、断水、断眠という厳しい条件下でそれこそ命懸けの「身調べ」を行ったとされています。
実際、伝えられるところによりますと、時々、気が狂ってしまうだけでなく、なかには命を落とす人もいたというわけですから、相当な荒行だったことが伺われます。それを子どもから高齢者まで一般の方にも取り組めるような現在の形に改良したのが内観の創始者・吉本伊信(1916~1988)でした。
その後1941年頃には、「内観法」という言葉が使われるようになり、ほぼ現在の方法が確立されましたが、吉本伊信が奈良県大和郡山に内観道場(現在の大和内観研修所)を開設したのは1953年のことです。現在の内観は、朝5時に起床して夜は9時に消灯するまで屏風で囲まれた半畳の空間で過ごしますが、8時間という睡眠時間が確保されております。また、水分はもとより、食事も三食きちんと摂取し、風呂にも毎日入ることが出来ます。原則として約5分程度の面接が1日に7~9回の頻度で、およそ1時間半~2時間おきに繰り返されますが、内観では面接よりも内観している時間、つまり自己探索の時間を重視しています。内観がうまくいっているときは、面接はなくてもよいと言う人さえいるくらいなので、本来、内観が「一人作業」だと言われるゆえんがそこにあります。したがって、「一人作業」に耐えられなければ、途中で挫折をしてしまうことになります。屏風の中で居眠りをしている内観者に対して吉本伊信は「ここは宿屋ではありませんので内観する気がなければお帰りください」と厳しい態度で臨んだようですが、修行法としての内観の真剣さを伝えてくれるエピソードだと思います。


2、心理療法としての内観
さて、その内観が心理療法として用いられるようになりますと、内観療法とも呼ばれるようになりました。とりわけ、1978年に内観学会が設立されてからというものは、セラピストがクライエントに内観を導入するケースが増え、学会の場で、内観療法としての研究成果も次々と発表されるようになりました。そうなると、臨床の分野では内観法という呼び名よりも、内観療法と呼ばれることが普通になってきたのです。かつて内観法としての内観は「一人作業」としての色合いが濃かったのですが、心理療法としての内観になると「関係」 が注目されるようになりました。なぜならば、基本的に心理療法 は、二人の人間(セラピストとクライエント)によって行われることが多いからです。つまり、内観法では問題にされなかった両者の「関係」が内観療法においては重視されるようになってきたというわけです。当然のことながら、「関係」が注目されるようになると、両者の「出会い」とその「経過」並びに「終結」について検討する必要が出てきます。本稿では内観療法における「終結」について述べるわけですが、その前に「内観と内観法と内観療法」という用語についても触れておくことにします。


3、内観と内観法と内観療法
ここで「内観と内観法と内観療法」という言葉について述べようと思うのですが、じつはそれを語りだすとひとつの論文が出来上がってしまうほどです。紙幅に制限を求められている本稿でそれについて詳述するわけにはいきませんが、興味のある方は拙文 を参照していただくとして、ここにはごく簡単に述べるだけに止(とど)めたいと思います。
内観法は主に内観研修所などで行われていて、いわゆる内観原法と称されることもあります。自己啓発を求めてくる内観者には最適です。一方、内観療法は、心理療法として内観を求めてくる場合に必要とされてきましたが、病院などでその環境に合わせて治療構造が改変されたり、あるいは内観研修所においても内観者の病理に合わせて工夫されたり、いわゆる内観変法として用いられている内観のことを称しています。そして内観という呼称は、それらを総称する際に用いられてきました。また、その他に集中内観や日常内観、分散内観といった言葉もありますが、通常、内観という場合には集中内観を指してそう呼ぶ慣わしがあります。ここでもそれに倣って「内観」と記述する場合には、「内観法」と「内観療法」を総称する際に用い、集中内観を意味しています。


4、終結と内観法
ところで、「終結」とはどういう事態なのでしょうか。広辞苑は「物事が終わりになること。しまい。おわり」の意味だと記しています。「心理療法を終えるとき」という本書のタイトルに倣えば、本稿の本節では「内観法を終えるとき」ということになりそうです。また、別な言い方をするならば、「終結」とは心理療法を続けてきたセラピストとクライエントの「別れ」ということにもなるでしょうか。そうすると、内観法には「終結」はなじまないように思われます。というのも、既に述べたことですが、本来、内観法は「一人作業」だといわれていますから、この場合に両者が「別れる」という事態は、訪れようがないし、ふさわしくないことになります。
また、内観法を説明する際に、吉本伊信は集中内観を電柱に、日常内観を電線に譬えました。つまり、研修所などで一週間という期間を籠(こも)って行う集中内観は、日常生活に戻って行う日常内観のための基礎訓練であり、入門式だと言うのです。入門式を経た内観者は、そのあと日常生活の中で日常内観を続けることが求められます。実際に吉本伊信が模範的内観者として絶賛した女性(お琴さん)の場合は、自らの意思で日々の内観を官製はがきに書いて送ってきましたが、まさに「一人作業」を継続したことになります。かつて筆者は、お琴さんのはがきによる日常内観の件を伝え聞いたとき、おそらく吉本伊信という面接者(師)がいるからこそ続いているのだと思っていました。ところが、その吉本師が他界したあとにもはがきが届いたのです。しかしそのときでも、それは2代目所長のキヌ子夫人に宛てたものだというふうに勝手に解釈しておりましたが、夫人亡き後、一面識もない筆者が所長を引き継いだあとも、はがき内観が定期的に届けられたのには驚いてしまいました。お琴さんの日常内観は、まさに「一人作業」の極致に達したものだと思われます。こうなると、「内観法の終結」はその人の生命(いのち)の終わりにやってくるとしか言いようがありません。否、あの世で続いていないと誰が言えるでしょうか。ひょっとすると、内観法は「永遠に続く行」だといってよいかもしれません。


5、内観療法における終結
ところが、修行法としての内観ではなく心理療法としての内観を求めてやってくる内観者(クライエント)にとっては、既述のような「一人作業」としての内観法は困難になることがあります。そういうケースには「関係」のなかで内観療法が行われますが、おそらく他の技法と比べたとき、「関係」のあり方はだいぶ違うように思われます。ある高名な精神分析に精通したセラピストが「心理療法とは、セックスのない恋愛関係だ」と講演で述べておりましたが、それを聞いたとき、内観との相違を感じた記憶があります。恋愛関係のような濃密な心理療法であれば、両者(セラピストとクライエント)のコンプレックスが絡んだときには、相当に複雑な「関係」が発生するように思われます。では、その高名なセラピストの行う心理療法と内観は、どう違うというのでしょうか、おそらく治療構造の違いは大きいように思われます。たとえば、カウンセリングや精神分析が1回50分(あるいは60分など)というセッションを毎週,あるいは隔週に決めて開始するわけですが,最初から終了日を決めて行うことは少ないでしょう。もとより,上地安昭によってわが国の学生相談の分野に紹介された「時間制限心理療法」 というのはありますが、それは,学校に長期休暇や卒業という制度があるために,心理療法の流れとは無関係に面接の中断や終結を余儀なくされるという事態が発生するので,それによる弊害(セラピストの傷つきやクライエントの不安など)を考慮して作られたという一面があるようです。そこでは、個々のクライエント(学生)によって,制限時間の設定も変わってくるように思われます。内観のようにどのクライエントに対しても一週間という時間制限がなされているわけではないように思われます。つまり,一週間を単位とするこの時間制限は,内観の特徴だと言ってもよいでしょう。内観では,時間が制限されているだけに短期集中法としての効果が発揮されることになります。「一分一秒を惜しんで内観してください」というのは,吉本伊信の言葉ですが,一週間の時間制限下で聞かされるとその気になってしまうから不思議です。内観が治療構造の中に時間制限を設けたことによって、逆説的ですが、セラピストはその間はほとんど付ききりでクライエントの世話が可能になります。起床時から就寝まで食事はもとより、定期的に面接が行われて集中した世話を受けることのできる構造は、重症で不安の強いクライエントには安心感を与えることも事実です。そして、セラピストとの間で安心感を体験したクライエントほど終結はスムーズですが、一週間で十分でないというクライエントの場合には延長もあり、繰り返し内観に訪れるケースもあります。


【本文は、「心理療法を終えるとき」丹治光浩編(北大路書房)より転載しました。】

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