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シリーズ【内観をめぐるはなし】第45回


「合掌」をめぐって


大和内観研修所 真栄城輝明


筆者自身もそうであったが、カウンセリングなど欧米の心理療法を学んだ面接者(セラピスト)のなかには、内観面接時の「合掌」という所作に抵抗を覚える人が少なくないだろう。
実際、日本内観学会主催の第1回内観療法ワークショップが平成元年に愛知県一宮市で開催されたとき、準備委員会は、内観実習の場面では、「合掌をしない」ことを申し合わせている。理由は、内観から宗教色を廃しなければ、臨床や教育の場では抵抗が強く、受け容れられないだろう、ということからであった。  
従って、内観研修所で行う内観の場合はともかくとして、少なくとも、学会主催の内観実習では、「合掌をしない」ことにしよう、といった取り決めがなされた。
たかが「合掌」、されど「合掌」なのだ。
そもそも合掌とは何なのか?そして、合掌にはどういう意味があるというのであろうか?
哲学者で宗教問題の啓蒙家として活躍するひろさちや氏は、その著「仏教と神道」(新潮選書)のなかで、合掌が仏教と共にインドから伝わってきたことに触れてあと、こう述べている。
「インド人は、現在でも、日常生活において合掌します。合掌をして、『ナマス・テー』と言います。『わたしはあなたを尊敬します』といった意味です。『おはよう』も『こんにちは』も、『さようなら』も、すべて『ナマス・テー』です。日常生活のなかで合掌する習慣は、なかなかいいものです。できれば、日本人も、この合掌の習慣を日常生活のなかに定着させたいものです」と(79頁)。しかし、そうはいっても、この国の心理療法の世界では、今なお宗教へのアレルギーは相当なものがあって、先の取り決めを改めることはむつかしいようだ。
けれども、内観研修所において面接をしてみるとわかることであるが、合掌なしの内観面接はちょっと考えられない。なぜならば、合掌のない面接は「だしを抜いたみそ汁」をいただくようなもので、それなしでは面接の妙味が半減するからである。ところが、これまで「なぜ、合掌するのですか?」という質問を受けるたびにその返答に窮する始末であった。
そこで、吉本伊信の遺したテープや資料はもとより、ときには内観研修所を主宰している方々との対話を通して学んだことを筆者なりの表現で答えるようにしてみた。
「人間はどんな人にでも仏性(いのち)が宿っている。仏性というのが宗教的で抵抗があれば、良心あるいは、超自我と言い換えてもよい。たとえ極悪非道な罪を犯した人にでも良心(仏性)というものがある。面接のときの合掌は、内観者に対してだけではなく、否、むしろそれ以上に内観者の背後に潜んでいるとされる仏性に対する畏敬の念なのだ。面接者として内観者の仏性を感得したいとの意思表明だと言ってもよい。そのとき、面接者は心の中で、“私にはこの内観者の悩みを解決したり、病を治したり、救うことは不可能だ。なぜならば、私は無力だから。面接者としての私に出来ることは、せいぜい内観者の中に潜在している仏性が顕現してくれるよう祈るだけだ“と自らに言い聞かせつつ手を合わせる」という説明がそれである。
そして、「合掌」には内観の人間観が象徴的に示されていると思う。ひろさちや氏ではないが、合掌もなかなかいいものである。合掌が日常化しているインドとは違って、この国では日常化していないが故(ゆえ)に、非日常の世界を醸(かも)し出すことにもなろう。そうやって考えると、「合掌」は内観面接に欠かせない所作だとは言えまいか。


〈本文は、拙著「心理療法としての内観」(朱鷺書房)から抜粋し、修正を加えた。〉
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